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![]() 更新日:2017年12月8日 過去記事1 過去記事2 過去記事3 過去記事4 ■2017/12/8 アメリカ、台湾、そして日本へと受け継がれていく、Rebels of the Neon Godによる青春への叛逆 『青春夜話 Amazing Place』 切通理作初監督作品『青春夜話 Amazing Place』が公開中です。先月、メルマガ『映画の友よ』Vol.090に本作の長編レビューを寄稿しました。今回は映画公開から1週間経つということもあり、映画の熱がより広がってほしいという思いから、一部修正の上、こちらに掲載いたします。映画をご覧になった方には作品をさらに理解するためのテキストとして、未見の方には作品に興味をお持ちになってもらえる読み物としてご一読いただければ幸いです(ほとんどネタバレはありませんのでご安心ください)。 元のレビューはこちらでお読みいただけます。 切通理作主宰メルマガ『映画の友よ』 --------------------------------------- ◇エロという怪獣による、学校の破壊 先日閉幕した、東京国際映画祭で『フォーリー・アーティスト』(2016)という台湾映画を観た。実際に靴を履いてステップを踏む等して、生の音を録音し、映画効果音を作り出す者をフォーリー・アーティストと呼ぶ。台湾映画界で数十年に渡り、この職種に携わってきた音の魔術師フー・ディンイーと彼が歩んできた台湾映画史に焦点を当てたドキュメンタリーである。劇中では、数々の台湾名作映画が紹介され、その中にはツァイ・ミンリャン(蔡明亮)の劇場監督デビュー作『青春神話』(1992)があった。雨の中、電話ボックスの電話機から小銭を盗む若者たちの姿と、そのタイトルを目にして、切通理作初監督作『青春夜話 Amazing Place』とは何だったのか、ようやっと気づいた。 ![]() 『青春夜話 Amazing Place』ポスター。アニメではありません。 二十代と思しき、しょぼくれた男と冴えない女。二人は雨の中、偶然か、あるいは必然か、出会うことになる。共鳴を感じた男女は夜の学校に忍び込み、かつて謳歌できなかった青春に対して彼と彼女なりの性的な方法で復讐を果たす。同じ頃、同じ学校、二人の若者より上の世代の、同様に孤独を抱えた別の男女もまた青春のやり直しをしようともがいていた。翌朝、四人の男女は昨日までとは違った景色を目にして新たな人生を歩んでいく。 『青春夜話』のストーリーを簡潔にまとめるとこうなる。今風にいえばリア充な青春を送れなかった者たちの足掻き、一夜の大人気ない暴れ。二組の男女が織り成す二つの夜話を描いた映画だ。創作者は自身がコントロールできる環境下で初めて作ったものに、己の主義や欲望を限界までブチ込むものだろう。評論家としてサブカルチャー作品をテーマとする論評を中心に活動してきた切通は、『お前が世界を殺したいなら』『怪獣少年の復讐』等、初期の著作から近作まで一貫して、幼少期にやり切れない思いを抱えながら過ごした者の情念を汲み取った作品を論じてきた。また、映画雑誌でピンク映画時評を長年執筆し、特に瀬々敬久、佐藤寿保、佐野和宏、サトウトシキが描く、人間の暗い欲望と魂のありようを覗き込む作品にシンパシーをもって接してきたように思える。そんな切通がエロスと妄想を用いて青春への復讐を描こうとするのは、もはや必然。 二組の男女には、切通の願望と諦念が託されているように思う。須森隆文と深琴が演じる二人の会社員、野島と青井は過ごせなかったエロく楽しい青春を味わおうと、深夜の学校で乱痴気騒ぎを楽しむ。制服姿でセックスに耽り、絵の具で裸体にお絵かきをし、学校を物理的にも道徳的にも破壊する。そこに切通の学校や青春に対する満たされなかった性的な欲求や破壊願望が反映されているのは明白。エロによって学校を破壊する。怪獣映画とピンク映画に親しみ、論じてきた男の妄想が具現したのだ(ピンク怪獣映画の誕生だ!)。 では、もう一組の男女はどうか。安部智凛が演じる教員の山崎と飯島大介演じる用務員の猪俣は、学問の場で働いており、まともな社会生活を送っているが、どちらも今はパートナー不在の寂しい日々。山崎が宿直当番のある夜、猪俣は彼女に思いを告白する。夜の屋上で語り合う二人の姿は少年少女のようで微笑ましい(その頃、校内では野島と青井がエロエロな騒ぎを起こしているのだが。二人とも仕事せいよ)。 この二人にも切通の願望が現われているのだろう。どんな人にも暴力的なイタズラ心と優しき童心があるものだ。学校を破壊したいと願う一方で、こっ恥ずかしいストレートな告白物語にも憧れる。『サンタ服を着た女の子―ときめきクリスマス論』や『失恋論』といった著作もあるだけに、これもまた切通の心の叫びの映像化なのだ。 また、願望だけでなく諦念も見てとれる。本当はあと先考えず、エロと破壊に身を委ねたいが、社会的責任や衰えゆく体力から、そこまで踏み出すことはできず、せいぜいが一回りも二回りも年下の女性に告白をするくらいがやっと。実際、そのくらいの踏み出しで満足もしてしまう自分。そんな、ある種の諦めも、飯島演じる用務員に託されているのではないか。 須森隆文、深琴、安部智凛、飯島大介演じる人物はすべて切通の分身であり、彼の男としての情念と女への思いを別人物として、四人は演じ切った。 それぞれの思いを遂げ、精神的な卒業を終えた四人は雨の上がった夜明けに、学校から外へ出て、新生活へ歩みだす。 そして、タイトルについて。『青春夜話』は切通本人がツァイ・ミンリャンの『青春神話』からインスパイアされたものだと公言しているが、僕はそのことを深くは考えていなかった。だが、『フォーリー・アーティスト』の中で、『青春神話』の雨のシーンを眺めている内にすべてが繋がった。『青春夜話』は『青春神話』との連関だけでなく、さらに過去に青春や孤独を扱った作品群とも結びついていくことが分かったのだ。 ◇ツァイ・ミンリャンが台湾を舞台に描いた、Neon godによる青春への叛逆 『青春神話』は『河』や『楽日』で知られる、台湾の映画監督ツァイ・ミンリャン(蔡明亮)がはじめて劇場用映画として手掛けた作品。台北の下町を舞台にした、若者たちの暗い青春群像劇で、社会に取り残されていく現代人の不安な心を描き続けるツァイ・ミンリャン作品の原点ともいわれる傑作。親との交流もなく鬱屈した日々を過ごす予備校生のシャオカンと、窃盗した金で相棒と無軌道に遊び回るアザー。彼らのやり切れない思いが画面に滲む。特に、その後のすべての作品で主演をすることになる、リー・カンション演じるシャオカンが痛々しい。友も理解者もおらず、勉強にも身が入らない毎日を送る彼がある日、親に無断で予備校を退学するという小さな叛逆をする。そのまま家へ帰らず、街を放浪するシャオカンは以前、因縁をつけてきたアザーを見かけると、そのまま後を追って、同じホテルへ泊まる。そして、アザーのいない隙を狙って、駐車場にある彼のバイクを破壊するシャオカン。パーツを剥ぎ取られ、スプレーでボディを台なしにされた車体を見て、アザーは怒りを露にする。その様子を上階のホテルの部屋で見下ろし、半裸で喜びにはしゃぐシャオカンが切ない。 このシャオカンの姿は『青春夜話』で裸体に絵の具でペインティングする男女と重なってくる。共にはしゃいだ野島と青井とは違い、シャオカンは一人ぼっちの裸踊り。何て哀れなんだ。彼はテレクラにも入店するものの、かかってくる電話に出ようとしない。もし、電話に出ていれば、そこから異性との出会いがあるかもしれないのに。手ひどい目に遭う可能性だってある、それでも『青春夜話』の野島と同じように、違った夜明けが見えてくるだろう。僕は心の中で「電話に出てくれ!」と叫んだが、結局シャオカンは一度も受話器を上げるなく、店を後にし、変わらない夜明けの街へ彷徨い出て行く。 ![]() ツァイ・ミンリャン監督作『青春神話』 『青春神話』の原題は『青少年哪吒』。哪吒(ナタ)とは道教で崇められている、少年の姿をした神。劇中で主人公の予備校生シャオカンの母親は息子のことを占いで哪吒(ナタ)太子の生まれ変わりだと信じてしまう。それに対する反攻からか、シャオカンは親の前で神の化身のごとく踊り狂ってみせ、忌々しい不良のバイクに落書きをした場所に「哪吒(ナタ)太子参上!」と書き殴る。また、本作の英語題は「Rebels of the Neon God」といい、直訳すれば「ネオンの神の叛逆者たち」。作中で青少年らはギラギラした電飾に彩られた街を徘徊、ヒマさえあればゲームセンターでビデオゲームに興じる日々を送り、鬱屈から社会に対してささやかな反抗を繰り返す。電気文明の現代に生きる少年神たちの叛逆。英語題は作品の本質を直球で伝えている。この、the Neon Godという言葉はサイモン&ガーファンクルの名曲「サウンド・オブ・サイレンス」の歌詞にも出てくる。 And the people bowed and prayed そして 民衆はこうべを垂れて祈った To the neon god they made. 彼らが作り上げた「ネオンの神」に 「サウンド・オブ・サイレンス」は64年に全米リリースされたデビューアルバム『水曜の朝、午前3時』にオリジナル・バージョンが収録され、翌年にシングル・リリース。60年代後半からアメリカでは、既存のルールや体制に反攻する若者たちに支持されたカウンターカルチャーの流れがあった。歌詞にあるthe neon godが何を指しているのかは当時から諸説あり、家庭に普及しだしたテレビメディアの登場や、テレビを始めとした新テクノロジーに囲まれて育った次世代を担う若者だという説もある。この曲は60年代後半から70年代にかけてのアメリカ社会の変容を表しているようにも思えるが、その印象を強くするのは、67年に公開されたアメリカン・ニューシネマ『卒業』のテーマ曲に使われたことからだ。 ◇『青春夜話』の源流はサイモン&ガーファンクルにあった 『卒業』に登場するのは、ふがいない男とうらぶれた女ばかり。目的を見失い、虚無に苛まれる若者世代と、彼らと断絶する上の世代の大人たち。主人公の青年ベンジャミンは人妻に誘いをかけられ、彼女の魅惑的な肉体で自身の心に空いた穴を埋めるように、堕落したエロの生活に溺れてゆく。抵抗すらできない、どうしようもない肉欲の日々の末、最後には幼馴染のエレーンと築く未来を夢見て、彼は一世一代の叛逆を試みる。ベンジャミンとエレーンは互いに手を取り合い、すべてを捨てて、大人たちへ背を向け、バスに飛び乗った。中年の乗客らは二人の若者、Neon godsをジっと見つめる。バックには「サウンド・オブ・サイレンス」が…。 二人の先にあるのは輝かしい未来などではなく、すぐにも行き詰る厳しい現実だ、というのが現在の大方の観客が抱く感想だろう。確かにそうかもしれない。だが、ささやかな叛逆の先には違った景色が見えるはずだ。いつもと異なる風景を掴み取れたら、それでいいではないか。 『卒業』は社会に馴染めない若者たちに支持された。「サウンド・オブ・サイレンス」も、現代人の孤独を歌った名曲として親しまれ続け、近年の映画でも『ウォッチメン』(2009)や『激戦 ハート・オブ・ファイト』(2013)で雨の中での効果的な使われ方をしていたのは記録に新しい。『青春神話』も『青春夜話』も「サウンド・オブ・サイレンス」が流れることはないが、どちらも雨の降りしきる都会の中で孤独な青年たちが社会に叛逆し、それぞれの夜明けを迎える物語。 そして、これはいささか無理矢理な結びかもしれないが、切通理作は1964年生まれで、「サウンド・オブ・サイレンス」がはじめて世に出たのと同じ年である。ここに関係性を見出さずにはいられない。日本では、60年代生まれを一般的にオタク第一世代と定義することが多い。オタク、つまりテレビメディア等のサブカルチャーに育てられた新世代、Neon godである。切通もまたNeon Godであったのだ。『青春夜話』とは何か。それは日本のRebels of the Neon Godの一人である、切通による青春への叛逆なのだ。 --------------------------------------- というレビューを映画公開前に書きました。レビューでは冷静に見つめたかったため、あえて、直接の感想は避けたんですが、僕が観て感じた第一の思いは「バカみたい。でも、うらやましいな」でした。僕は男子校だったこともあり、学校生活において、リア充を見せつけられることもなく、ある意味で平和な空間にいました。鬱屈してましたけどね(自身の高校生活に最も近い映画は北野武監督作『キッズ・リターン』)。 特に女性との縁もなかったけど、とはいえ学校に対して性的な復讐を遂げたくなるような闇がないんです。でも、それってちょっと寂しい。感情の迸りや欲望の爆発は、抑えに抑えたものがあるからこそ。抑えつけられた負の感情を溜め込むのは辛いものの、その反動から来るカウンターアタックがもたらすカタルシスは射精のような気持ちよさ。射精(=青春)のやり直しをあんなにもバカみたいに、あけっぴろげにヤリまくる主人公たちの姿に羨望の眼差しを向けていました。 僕は試写で拝見していたので、その時点での『青春夜話』一般公開後の反応は未知数でした。情念と計算をもって作られた密度の濃い映画ではあるものの、ゆえにあまりにもエロエロ、あまりにも破壊的なため、広く受け入れられるのだろうかと内心、心配も。ところがフタを開けてみれば、公開初日には満員御礼! 遠方から来られたのに、観ることが叶わなかった方までいらっしゃる事態に。ネット上での感想を読んでいくと、主人公らの学校での狂乱ぶりに皆、どこかで共鳴するものを感じ、心にしこりを残しているように思えます。切通監督は別に、観た者をノックアウトしてやろうなどという野心があったわけではなく、ギリギリの予算と人手の中で、映画という商品(ここ重要)に、ただ己の欲望と変態性をがむしゃらに、ひたすらに、ブチまけました。限られた環境下で、商品としてのパッケージングを考えつつ、自身の情念を極限まで盛り込む、それは切通監督が見つめ続けてきたピンク映画が行ってきた苦闘そのもの。今回、自らが同じ苦闘に身を投じたことで、観る者の心に引っかかりを残す、エロで青い純然たるピンクな映画が生まれたのです。 また、観ること語ることと、作ることが全くの別軸であるのは、映画評論家・水野晴郎の監督作『シベリア超特急』が体現したとおりで、失敗するリスクも高い(『シベ超』はその後も何だかんだとシリーズを作り続けたことは偉大ともいえますが、各映画単体で観れば、どれも駄作です。凄いですけどね、水野さんは)。切通監督は映画の魔に無謀にも飛び込み、手探りで映画の澱みを掻き分けていく中で、友松直之や黒木歩らに教えを乞い、先人たちの助言を受け入れ、何度も脚本をブラッシュアップ、不特定多数の人が観る商品の形を目指していきました。お金を払って観たお客さんには、映画に込められた変態性(=芸術性)だけでなく、商業性も届いたはず。そこが数多ある、独りよがりな自主映画との決定的な違いで、多くの方々に受け入れられた要因だと僕は考えます。 映画はいつまで経っても、どこまで行っても商品なんだ。でも同時にいつまで経っても、どこまで行っても芸術でなくちゃならないんだ。その危ういバランスで常にギリギリの綱渡りをしているのが、映画なんだ。それをあらためて気づかせてくれたのが『青春夜話 Amazing Place』です。 『青春夜話 Amazing Place』 新宿ケイズシネマにて、2017年12月2日(土)〜12月15日(金)の期間、上映中。 公式サイト |
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