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2015/10/6 『魔法少女まどか☆マギカ』論 <リアリストの敗北>と<幼児性ゆえの希望> そして、70年代ニヒリズムとゼロ年代以降を結ぶもの
※本論考文はメルマガ『映画の友よ』への寄稿文を加筆、修正したものです。
『魔法少女まどか☆マギカ』は私の大好きな作品です。以前に勤めていた某オンラインゲーム会社でリリースした『魔法少女まどか☆マギカ オンライン』(現在はサービス終了)の開発・運営に携わっていた身としても思い入れがあります。約3年に渡ったゲーム運営期間は、常に「まどマギ」のことを考えていた程です。昨日、あらためて『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』を観たのを期に、昨年、メルマガ『映画の友よ』に寄稿した論考文を加筆・修正し、ここに公開させて頂きます。
◇『まどかマギカ』とは何か
『魔法少女まどか☆マギカ』(以下『まどかマギカ』と記します)は『Fate/Zero』や『仮面ライダー鎧武』の脚本で知られる、シナリオライターの虚淵玄が脚本を担当した、全12話のTVアニメ作品として始まりました。
奇跡にも等しい願いを叶える代償として、キュゥべえと呼ばれる謎の生物と契約を交わし、魔法少女となる少女たちの物語。魔法少女には、人類に仇をなす存在「魔女」との戦いが宿命づけられます。主人公の鹿目まどか、友人の美樹さやか、先輩魔法少女の巴マミ、別の町からやってきた魔法少女・佐倉杏子、そしてまどかに執着する謎の転校生・暁美ほむら。この5人を中心に物語は展開していきます。タイトルから受けるイメージでは、少女たちが仲間と協力し合い、希望を胸に抱きながら魔物と戦う明るいファンタジーものを思わせます。しかし、それは製作者側のミスリードであり、物語は主要キャラクターの一人、マミの残酷な戦死を契機にダークな様相を呈します。終盤で暁美ほむらによって語られる真実、それは「魔女の正体は、絶望で心が濁りきった魔法少女のなれの果て」
キュゥべえの正体はインキュベーターという名の、高度な知的異星生物であり、少女たちに契約を持ちかけ魔法少女にする目的は、魔法少女が魔女となる際に生み出す膨大な感情エネルギーの回収であることが明らかになります。さやかは絶望に染まり魔女と化し、杏子はさやかと運命を共にし命果てます。そして、明かされるもう一つの真実。ほむらには過去に戻る能力があり、彼女の目的はかつて自分を守ってくれたまどかに訪れる死の運命を変えること。そのために何度も同じ時間を巡るほむらですが、時間遡行を繰り返す度に魔法少女たちの運命はより悲惨な末路を辿ります。
最終話、魔法少女たちの絶望的な最後を目にしてきた、まどか(この時点では魔法少女になる契約をしていない普通の中学生)は考え抜いた末、インキュベーターへ<願い>を伝えます。その願いとは「過去・現在・未来、すべての魔法少女が魔女になる前に、消し去ること」
まどかを救いたいというほむらの思いから、これまでに何度も時間が巻き戻されたことで、まどかには因果が蓄積され、そのような途方もない願いを叶えることが可能なだけの強い魔法少女の素質が宿っていたのです。そして、まどかは魔法少女たちを救い続ける、神と呼んでもいい概念と化し、世界に救済がもたらされ、物語は幕を下ろします。王道の魔法少女ものの皮を被って始まった『まどかマギカ』は主要登場人物の悲惨な死を境にダークな絶望の世界へ転じます。「魔法少女とは?」「魔女とは?」「何故少女が選ばれるのか?」という、魔法少女ものへの根源的な問いにSF的な解釈を与えつつも単なるアンチテーゼに終わらず、最後は夢と希望の物語として収束する見事な作劇は観た人に驚嘆と感動を与えました。
その後、TVシリーズの再構築劇場版二作と、それに続く新たな完全新作『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』(以下、『まどか叛逆』と記します)が公開され、その衝撃的な内容(後述します)はファンの間で今でも物議を醸しています。本稿で私が主に取り上げたい部分は、各魔法少女たちのパーソナリティ。何故、まどかは他の魔法少女たちが辿り着けなかった<救済>をもたらす女神になり得たのか? そこを解き明かすには5人の魔法少女の心の中を探求する必要があります。次章から、彼女たちの心に迫ります。
◇愛の喪失と正義の敗北を突きつけられる少女たち
美樹さやかは意中の幼馴染である少年・上条の治療不可能な傷を治すことを願い、インキュベーターと契約を交わしました。愛する人が救われたと喜びを感じ、その人の住む街を守ろうと正義の使者としての戦いに意義を見出すさやか。しかし、さやかは、魔法少女としての本体(魂)は変身する際に使用する宝石ソウルジェムであり、人間としての肉体は生ける屍同然であることを知ってしまいます。そんな体で上条へ思いを告げることなど出来ないと苦しみ、さらに親友の仁美が上条に告白したことで、もはや自分と上条の間に愛が成立しないことを悟ります。そして、以前、仁美が魔女の餌食になりかけた時に助けたことを一瞬後悔してしまい、正義の心さえも保てなくなってしまいます。報われぬ愛と貫くことができなかった正義への後ろめたさから、さやかの心は絶望に染まり、魔女へ変身するという最悪の結果となります。
佐倉杏子もさやかと同様に、他者の願いを叶えるために魔法少女となった過去を持っています。彼女の場合は神父である父の教義を皆が聞いてくれることを願ったもの。父の信仰で人の心を救い、自分の魔法少女としての戦いで魔女の脅威を排除する日々に幸せを感じていましたが、ある日、父の信仰が広まったのは魔法のおかげということが露見します。杏子を魔女呼ばわりした父は酒浸りとなった挙句、杏子以外の家族と共に心中。父への愛が叶わず、守るべき信仰も失った杏子は以来、魔法を自分のためだけに使い、他の魔法少女たちと協力し合うことも拒絶する荒んだ心を持つようになったのです。杏子はさやかに昔の自分を見、はじめは敵対していた二人の間に奇妙な情が芽生えるようになります。しかし、結局さやかは魔女と化し、杏子はさやかと共に自爆する最後を遂げます。
二人に共通しているのは<依存>。それぞれ好きな少年のため、父のために魔法少女となった二人(対象が男である点も共通)。さやかは正義の使者としての活躍を願い、杏子は父の信仰がより人々の心に安寧をもたらすよう、魔女との戦いに臨みますが、愛を喪失したことで彼女らの心は黒く染まり、正義の心も崩壊してしまいます。さやかは絶望に染まりきり魔女となり、杏子は誰のためでもない自分だけのために魔法を行使する孤独な戦士となりました。二人とも愛と正義に救いを求めましたが、最終的にそれらが叶うことはなく、絶望の谷に突き落とされる悲惨な末路をたどります。一方、他者への依存をせず、はじめから現実を見極めたリアリストである魔法少女が巴マミです。
◇神になれなかったリアリスト
巴マミは魔法少女たちの中で先輩格となるキャラクター。まどかたちが通う中学の上級生でもあるマミは、まどかたちと出会う前から一人で魔女との激闘を繰り広げてきた歴戦の勇士です。交通事故により家族が死に、自身も瀕死の重傷を負ったところに現れたインキュベーターとの契約によって、魔法少女となったマミ。以来、彼女は一人で魔女と戦い続け、家でもすべての炊事類を自身で行う一人暮らしの生活を送っています。
紅茶や洋菓子が好きで、振る舞いも上品なそのお姉さん然とした人間性にまどかとさやかは憧れます。マミは死と隣り合わせの魔女との過酷な戦いをよく知っており、まどかたちに魔法少女として生きる厳しさと覚悟を教えます。高い戦闘力と冷静な判断力を持ったマミですが、ある魔女との戦いで、一瞬の隙を見せたところを襲われ、絶命します。
マミはシビアな現実認識と優しさが備わっている、完全な人格を持った人物のように見えますが、その心は実は非常にもろいものだったことが分かります。ほむらが旅した多くの時間軸の一つで、マミは魔女の正体が絶望を溜め込んだ魔法少女たちのなれの果てであることを知った時に錯乱し、仲間に武器を向け叫びます。
「魔女の正体が私たちなら、皆死ぬしかないじゃない!」
まどかたちの中で年長であり、経験も豊富、最も大人に近い存在ゆえに長く信じていた固定観念の崩壊に耐えられなかったのではないでしょうか。また、その優しすぎる心も残酷な真実を受容するにはデリケート過ぎたのです。『まどか叛逆』でほむらはマミのことを心の中でこう述懐します。
「私はあの人が苦手だった。強がって、無理しすぎて、そのくせ誰よりも繊細な心の持ち主で。あの人の前で真実を暴くのは、いつだって残酷すぎて」
マミの持つ強い現実認識は最終話における、まどかとの会話でも伺えます。まどかが決断した、魔法少女が魔女になる前に浄化する<概念>となる運命について、マミはまどかに説明します。
「鹿目さん。それがどんなに恐ろしい願いかわかっているの?(中略)死ぬなんて生易しいものじゃない。未来永劫に終わりなく、魔女を滅ぼす概念として、この宇宙に固定されてしまうわ」
マミは誰かのためではなく、自らの死を回避するために魔法少女となりました。一度死の恐怖を味わい、また幾度とない魔女との死闘を潜り抜けてきたマミは誰よりも死と隣り合わせの生き方をしています。そんな彼女にとって、まどかの選択(理想)は<死より恐ろしいもの>に映ります。まどかが神になれたのは、ほむらの時間遡行能力の影響によるものですし、マミは世界の真実に気付く前から<願い>を叶えて魔法少女になっていましたが、仮にマミがまどかの選択をできる立場にいたとしても、厳しい現実を繊細な心で見据えるマミには、受容できるレベルを超えた<死より恐ろしい>選択をすることはできなかったのではないでしょうか。
それでも、心優しきマミに救済の女神の素質があったことは、『まどかマギカ』のアニメ製作会社シャフト発行の原画集『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ KEY ANIMATION NOTE extra 始まりの物語/永遠の物語』(出版社:メディアパル)に記載されている、副監督・寺尾洋之のコメントからも伺えます。以下に引用させて頂きます。
(マミの変身シーンの中で、マミが両手を広げる動きをすることについて)
“描いたあと気がついたことですが、ここでマミが最後に手を開く動きをするのは、まどかが最終話で変身して「もういいんだよ」という時のポーズが自分の深層にあって、それがマミさんの母性を受け継いで、まどかが神様になるという視覚的な伏線を劇場版で無意識に作ったのかもしれません”
マミが手を開こうとする動きと神まどかの「もういいんだよ」ポーズ
神となったまどかがすべての魔法少女の悲しみと絶望を受け入れるポーズをマミが既にしていたのです。しかもこのマミ変身シーンはまどかの目の前で行われています。マミが果たせなかった、すべてを受け入れる母性による救済は最終的にまどかによって、成し遂げられます。では何故、まどかは神になる選択ができたのか? マミと同様に魔法少女たちの死や悲惨な運命を目撃しているはずなのに。そこにはまどかにあって、マミにはない、ある性質が影響していると思います。それは<幼児性>です。
◇幼さが持ちうる理想と夢の力
鹿目まどかは5人の中で最もおっとりした性格です。仲の良い友人に囲まれ、暖かい家庭で暮らす彼女はマミや杏子が抱える孤独とは無縁に思えます。さやかのように色恋沙汰で悩みを抱えることもなく、まだ<痛み>を知らない子供と言ってもいいでしょう。自宅の部屋にぬいぐるみを沢山並べている、ごくごく普通の女の子。そんなまどかが他の魔法少女たちが敗北していった残酷な真実に立ち向かえたのは、彼女が<幼かったから>ではないでしょうか。
世界の法則(価値観)が崩壊していく危機に、成熟していない若者や子供が奮闘する物語は日本のサブカルチャーで多く見られます。単純に掲載媒体が子供向けであったり、受け手の多くが若い世代であったりすることも理由ですが、物語の本質としての側面もあると思います。それを示してくれている一例が、黒沢清監督の『回路』(2001)。突如、死者(幽霊)が世界中で現出し、生者を襲い始め、世界中がパニックになる中、死の運命に抗おうとする若者を描いた終末ホラー映画です。監督の黒沢自身が執筆した小説版の中で、生と死の概念が覆る未曾有のパニックを主人公の若者ミチ(映画で演じるのは麻生久美子)が生き抜けたのは、世の中を何も知らない程には子供ではなく、固定された価値観に染まる程には大人に成りきれていない、ある種「あやふやな心」の持ちようであったことが要因だと説明がなされます。
固定化された価値観に縛られず、急激な変化も受け入れることができる柔軟な心の持ちよう。これは『まどかマギカ』にも当てはまります。マミは長い間、魔女を人類の敵として認識し、信念を持って戦ってきましたが、その長い経験により、魔女の正体が自分たちのなれの果てだったという「価値観の崩壊」に耐えられない大人になっていたとする見方ができます。さやかや杏子も、自分たちが信じていた愛や正義への信念が崩れ、絶望に押し潰されてしまいました。まどかには、過酷な経験を経ていない幼さゆえの<曇りない希望>が秘められており、その処女性とも言えるピュアさゆえにまどかは神になることを許された(絶望を受け止めることができた)のではないでしょうか。
また、概念として宇宙に固定されてしまう事実の恐ろしさをマミ程には理解していなかったとも考えられますが、その知識不足な危うい幼さも、大人では躊躇する選択に踏み出せてしまう勇気に転換できたのではないかと思います。マミがまどかに対して語りかける言葉、
「あなた自身が希望になるのよ。私たち、全ての希望に」
これはもはや自らが希望となるには擦れすぎてしまった大人(マミ)から、純粋さを忘れない、未来を担う子供(まどか)へ託した願いに感じられます。ここまで、さやか、杏子、マミ、まどかの心に宿る<依存><リアリスト><幼児性>を考察してきましたが、これらの要素をすべて持っているのが暁美ほむらです。次章では彼女の心の中へ入っていきます。
【少し論旨から外れたお話】
最終話でまどかがインキュベーターに願いを告げる直前、彼女は深呼吸をします。最強の魔女「ワルプルギスの夜」により壊滅状態となった街の中、すべてを終わらせる願いの前につく、深呼吸。繰り返し本作を観ているファンにとって、この深呼吸の<溜め>は「さあ!ここからまどかが神になって怒涛のエンディングに突入するぞ!」と期待値が高まっていく熱量を帯びたシーンとして映ります。まるでゴジラが放射熱線を吐く直前の光る背びれの如き盛り上がり。こういった緩急の心地よさも『まどかマギカ』の魅力です。
◇世界の真実を知ってもなお、叶わぬ愛にすがる少女
暁美ほむらは元々病弱で、長期の入院生活後の転校生であることもあって、クラスに馴染めない日々を送っていました。ある日、魔女に襲われたほむらを救ったのは同級生のまどか。最強の敵「ワルプルギスの夜」との戦闘で命を落とすまどかの運命を変えるため、ほむらはインキュベーターに願いを伝え、自身がまどかを守る魔法少女となる契約を交わします。直後、気がついた時にほむらは転校直前の状態に戻っていました。彼女の持つ、時間操作能力で過去に戻ったのです。ほむらはまどかを救うべく、魔法少女として戦いますが、やはりまどかの死の運命を変えることができず、その度に時を巻き戻します。幾多の時間軸を旅するうちに魔女の正体とインキュベーターの目的を知ったほむら。
時間を何度も遡っているほむらは経験という意味で、マミ以上に死を、戦いを知っています。そして世界の真実(魔女の正体)も。最も現実を知っている<リアリスト>のはずなのに、現実の悲惨な最後を受け入れることができず、たった一人の親友の救いを求めて、何度も時間を巻き戻します。現実の結果をなかったことにし、やり直そうという発想は大人に成りきれない子供の考えと言えます。また、ほむらの目的はまどかの救済のみで、それ以外は目に入っていません。まどかへの盲目的な愛情で自分本位の時間にしか意識が向かない内向的な視野狭窄状態に陥っているとも捉えられます。『まどか叛逆』で、さやかはほむらに哀れみの表情を携えながらこう語りかけます。
「また自分だけの時間に逃げ込むつもり? あんたの悪い癖よね、その魔法に頼りすぎるところ」
ほむらは繰り返す時間軸の中で、自分たちはインキュベーターに騙され、いい様に使われていると訴えたこともありますが、皆に信用してもらえず、それが仲間の死として証明された際は魔法少女たちの仲間割れという悲劇を引き起こしてしまいます。そして、ほむらは自分を理解してもらう努力を放棄し、親友・まどかを救うための孤独な時間巡りを繰り返していくことになります。ほむらがもう少し、他者とのコミュニケーションを取ることができていれば、未来はまた違った形になったかもしれません。これもまた、<まどか>という存在に対する<愛情の依存>に陥った、孤独な少女の悲劇です。
最終話で神とも形容できる宇宙の概念と化したまどかにより、世界の理は変わり、魔女は消滅します。魔女のいなくなった世界では、人々の呪いや憎しみが具現した「魔獣」が新たな人類の脅威として存在しており、魔法少女たちの戦いはなくなりません。ラスト、まどかの思いを受け継いだほむらがまどかの見守る世界で孤独に戦い続ける姿でTVシリーズの幕は閉じます。親友の覚悟と犠牲の選択を受け止め、一人でも生きていける強さを獲得したほむら。しかし、物語はその後、『まどか叛逆』であらたな希望と絶望が紡がれることになります。
◇神になった子供、悪魔になった子供
まどかのいなくなった『まどか叛逆』の世界で、ほむらはまどかに会えない苦しさとまどかに<死より恐ろしい概念となる運命>を選択させてしまった後悔から、自身に絶望を抱えてしまいます。<円環の理>(魔法少女が魔女になる前に消滅する際の救済を指して、魔法少女たちが用いる呼称)のメカニズムを解明したいインキュベーターによって作り出された、<円環の理>の影響を受けない隔絶空間の中で魔女と化したほむら。絶望の運命からほむらを救うため、さやかやマミら魔法少女たちは協力してインキュベーターの野望を阻止しようとします。
インキュベーターを退けた後、力尽きる寸前のほむらに訪れるまどか=<円環の理>。これで物語は大団円と思いきや、ほむらはその円を否定します。まどかの神の力<円環の理>の一部をもぎ取り、悪魔のような姿へと変貌するほむら。神にも等しい強大な力を持った悪魔ほむらは、その力で世界の法則を書き換え、神まどかの一部を地上の世界へ引きずり下ろし、もう一人の人間まどか(ほむらの望む、平和な日常を送れるまどか)を生み出してしまいます。この選択について、ほむらはインキュベーターにこう言い放ちます。
「希望よりも熱く、絶望よりも深いもの 愛よ」
幾多の希望と絶望の運命を経験したほむらが到達したのは、まどかの選んだ<全体を救う自己犠牲>の対極に位置する、<個人的な欲望の愛>でした。世界を破壊しかねない邪悪な力を持つ悪魔に何故ほむらは自ら変貌してしまったのか? それは、まどかが幼さゆえに持ち得た純粋さで神になれたのと同様の<幼児性>を持っていたからではないかと思うのです。
子供の無邪気さは打算や現実への恐怖を超えた勇気を発揮できる一方、時として、大人の常識では考えられない残酷な行為に及ぶことがあります。『悪い種子』(56)や『悪を呼ぶ少年』(72)といった映画でも子供の残酷な無邪気が大人(社会)を恐怖に陥れる様が描かれました。まどかとほむら、どちらも成熟していない幼い心を持つがゆえに、方や神に、方や悪魔となりました。一見、平和が保たれているように見えてその実、神の力と悪魔の力が同居する不均衡な世界で、ほむらは人間まどか(神まどかから引き裂かれた、何も知らない普通のまどか)に尋ねます。
「あなたはこの世界が尊いと思う? 欲望よりも秩序を大切にしてる?」
まどかは答えます。
「私は…尊いと思うよ。やっぱり、自分勝手にルールを破るのって悪いことじゃないかな」
まどかのために自分本位で世界の法則を破ったほむら。最後にほむらはこう口にします。
「そう…だったら、あなたは私の敵になるかもね。でも構わない。私は、あなたが幸せな世界を望むから」
ほむらの目には涙が。その雫が示すのは悪魔ほむらに残った人間性かあるいは……。
平等な救済を否定した欲望的な愛で締め括られる、まさしく<叛逆>と呼ぶに相応しい物語の幕引き。夢と希望を与える魔法少女たちの物語として始まったはずの『まどかマギカ』は、『まどか叛逆』で神と悪魔の物語にまで昇華しました。次章では、70年代に登場した、神と悪魔の織り成す傑作トラウマ漫画との相似について考察します。
◇70年代ハルマゲドン世代とゼロ年代セカイ系を超えて
観る者にトラウマを与える『まどか叛逆』には、永井豪の傑作漫画『デビルマン』との相似を強く感じます。『デビルマン』はデーモン族の侵略から地球を守るため、悪魔人間(デビルマン)となった少年・不動明と彼をデビルマンにした、明の親友・飛鳥了の物語が描かれます。終盤、飛鳥は自分の正体がデーモン族の頂点に君臨する大魔神サタンであることを知り、明に悪魔の力を与えたのも人類を救うためではなく、人類とデーモン族の最終戦争後も生き残れるようにするためだったことに気付きます。
秩序より親友・まどかへの愛を選び、世界の法則を書き換えたほむらと同様、人類やデーモン族の命運より、自分が愛した存在の(自分本位な)救済を願った飛鳥の行為は結果として、デビルマン軍団とデーモン族の戦争に発展。人類、デビルマン、デーモン族、すべての知的生物が命を散らす悲劇をもたらすことになりました。ほむらと飛鳥には共通点を多く感じます。共に世界の真実(人類を脅かす魔の存在)に気付き、親友と世界を守ろうと奔走。両者共、特別な戦闘能力を持たないので、銃火器を用いて魔物と戦う点も共通します。かつて、ほむらは魔法少女となったまどかに守られ、飛鳥はデビルマンとなった明に守られていました。当初非力な存在であった、ほむらと飛鳥は最後にはそれまで自分を庇護してきた者をも凌ぐ力を得ます。
ほむらと飛鳥は、親友に対して抱いていた気持ちが「友愛」ではなく、「愛」そのものだったと最終的に悟るに至り、唯一の愛する人の為に、その他大勢の意思など顧みない決断をします(『デビルマン』の場合、「既に決断していた」となりますが)。友情であれば、他の仲間や全体を考慮した公平性を持ちますが、愛は一対一。愛の為にはその他多くを犠牲にし、世界の条理さえも覆してしまう。しかし、その愛は完全に一方的なもの。『デビルマン』における飛鳥了と不動明の愛憎はハルマゲドンとして、全世界を巻き込む争いに発展します。ということは、ほむらとまどかの関係もいずれは……。
愛と友情の衝突による、世界の破壊や新秩序の創造。『まどか叛逆』と『デビルマン』の両作品には、この共通したテーマを見ることができます。
また、『デビルマン』の生みの親・永井豪のもう一つの代表漫画『マジンガーZ』にも『まどかマギカ』との相似を見出せます。超合金の魔神ロボット・マジンガーZを孫に授けた兜博士の有名な台詞「お前はあのマジンガーZさえあれば、神にも悪魔にもなれる」はそのまま、ほむらの時間操作魔法について言えることです。まどかが神になり、ほむらが悪魔となったのは元を辿れば、ほむらの時間遡行の魔法がもたらした因果の影響です。この時間操作の魔法はマミから「確かにすごい能力だけど、問題は使い方よね」と指摘されていますが、まさにその通り。ほむらは世界全体に干渉できる魔法を<愛>とはいえども私欲のために使いすぎ、その暴走は遂には神と悪魔を生み出すに至ります。
このように『まどかマギカ』には70年代に流行した、『デビルマン』等の愛と正義を否定したハルマゲドン漫画の要素を見出せます。ゼロ年代セカイ系アニメの一つとして語られることの多い『まどかマギカ』ですが、セカイ系で括れる程には透明度がなく、ドロっとした濁りを感じます。この感覚はむしろ、60年〜70年代のアメリカンニューシネマや『デビルマン』等のトラウマ漫画が描いてきた、観る者にしこりを残す重たさです。
私は『まどか叛逆』を上映初日に新宿で鑑賞したのですが、400席程の場内は満員で、「まどマギ」ファンたちの熱気が充満。私の近くに座っていた女性グループは、映画序盤での、さやかと杏子のじゃれ合いや魔法少女たちが力を合わせて戦うシーンを、声を上げて楽しんでおりました。おそらく彼女たちを含めた多くのファンにとって、<見たい世界>がそこに映されていたのでしょう。<友情>に彩られた、犠牲も愛憎も無い世界。しかし上映終了後、ほむらの<愛>ゆえの決断により訪れる、物語の結末を見届けたファンは皆どよめいていました。<ハッピーエンド>とも<バッドエンド>とも捉えきれない、価値観を揺さぶる衝撃的な結末の解釈を巡って、劇場ロビーでは多くの議論が展開。その衝撃は皆の心に深いしこりを残したと思います。それは、かつて『デビルマン』の黙示録的世界がもたらした衝撃と似ています。
脚本の虚淵玄が付けた『まどかマギカ』企画段階の仮題は『魔法少女黙示録 まどかマギカ』でした(芳文社発刊の「魔法少女まどか☆マギカ公式ガイドブック you are not alone.」より)。その後、「黙示録」は外されましたが、物語は『まどか叛逆』のラストでいよいよ神と悪魔が織り成す、黙示録の世界へ到達。続編の噂も囁かれる『まどかマギカ』のさらなる[新編]を観る日もいつかやってくるのかもしれません。その日を待ち続けたいと思います。
【おまけ】
以下のイラストは、オンラインゲーム『魔法少女まどか☆マギカ オンライン』のキービジュアルやプレイヤープレゼント用壁紙です。3番目の手つなぎイラストは私がビジュアル案を出しました。当時、プレイヤーの方々に喜んで頂けたかな?
2015/5/22 白石晃士ユニバースとユニバース作品あれこれ
明日、5月23日(土)に池袋の新・文芸坐で、オールナイトイベント「『コワすぎ!最終章』を最大限楽しむために 白石晃士ユニバース!」が開催されます。
これは、日本が世界に誇るフェイクドキュメンタリー作家・白石晃士監督の名作を一挙上映するイベント。
上映作は『ノロイ』『オカルト』『カルト』『殺人ワークショップ』の4本。これらは最新作『戦慄怪奇ファイル コワすぎ! 最終章』をより楽しむ上で必見のラインナップとなっています。
『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』シリーズは世の中の様々な怪異に、暴力ディレクター・工藤(大迫茂生)、アシスタント・市川(久保山智夏)、そしてカメラマンの田代(白石晃士)が毎回、あと先考えない猪突猛進さで口裂け女に幽霊、河童、果てはダイダラボッチを思わせる巨人にまで「映画への狂気」を武器に突っ込んでいく人気フェイクドキュメンタリーシリーズです。
回を追う毎に明かされていく新事実と深みを増すキャラクター同士の絆は米TVドラマや日本の連載漫画を思わせ、ニコニコ生放送では常に脅威の満足度を叩き出すオモシロすぎなモンスターシリーズ。
初の劇場版となる『戦慄怪奇ファイル コワすぎ! 史上最恐の劇場版』から続く、『コワすぎ! 最終章』では、前作で異界に囚われた工藤と市川を救うべく田代の前の謎の人物が現れます。あんまり言うとネタバレになるので細かいところは伏せますが、この謎の人物・江野祥平は『オカルト』に登場した、同名キャラクターと同一人物であり、さらに『殺人ワークショップ』にも、<殺意>による<自由な魂の解放>を伝道する、殺人講師として登場しています。
これまではトークショーやパンフレット等で白石監督により言及されてきた、キャラや世界観の繋がりが『コワすぎ! 最終章』によって明確に示され、それが単なるオマケ要素ではなく、物語を盛り上げ、世界観を広げる装置として機能しています。
※オールナイトのラインナップにはありませんが、同じ白石監督作『ある優しき殺人者の記録』に登場するカメラマン・田代は『コワすぎ!』シリーズの田代と同一人物です。
白石映画ファンは、作品同士の融合に盛り上がり、また『コワすぎ!』から入った新しいファン層も、『コワすぎ!』を異界への扉として、他の白石作品へ足を踏み入れています。
こういった、「同じ世界観で展開される複数作品とそれらの融合」は他のコンテンツでも見られます。
「作品同士の融合」つまりクロスオーバーが顕著なのはアメコミです。アメリカンコミック界では同じ出版社のキャラクターは同じ世界の住人ということになっており、例えばDCコミックスから出版される作品においては、バットマンのホームタウン・ゴッサムシティやスーパーマンの活動拠点メトロポリスが 同世界に存在しています。
DCユニバースと呼ばれる、この世界ではスーパーマンがゴッサムシティにやってきてバットマンと喧嘩したり、スーパーマンがワンダーウーマンと恋仲になったりします。度々、DCキャラクターが総登場する、一大クロスオーバーイベントが複数コミックにまたがって展開されるのも恒例となっています。この辺にはキャラクター大国・アメリカのビジネススピリッツも大いに影響しているのでしょう。
一方、日本の漫画では、作品は作家のものという認識が強く、同じ作家の複数作品でクロスオーバーが見られます。
同じ作家のユニバースと聞いてすぐに思い浮かぶのは永井豪大先生でしょう。関東地獄地震により、孤島と化した関東地方で血で血を洗う戦国絵巻が繰り広げられる『バイオレンス・ジャック』(未読の若い方は今すぐ手元のプレステ4を売っぱらったお金で、全巻揃えてください)。
この漫画には『ハレンチ学園』『キューティー・ハニー』といった永井豪キャラが総登場し、終いには、主人公とライバルが実は『デビルマン』の不動明と飛鳥了だったことが発覚。つまり、『バイオレンス・ジャック』は『デビルマン』ワールドでしたというオチ。これには当時の読者および永井豪本人の度肝を抜きました。
その後、永井豪は何を描いても「実は『デビルマン』ワールドだった」というノロイに苦しめられることになるのですが…。
他にも目を向けると、士郎正宗の『攻殻機動隊』と『アップルシード』は同世界に位置されていますし、あとこれはギャグレベルですが、鳥山明の『ドラゴンボール』で悟空がペンギン村(『アラレちゃん』の舞台)にお邪魔するエピソードがありました。
特撮ヒーローものでも、ユニバースは見られます。『帰ってきたウルトラマン』でセブンが登場した時(初めて各ウルトラ作品に直接の繋がりが示された瞬間)、お茶の間には衝撃が走ったと言われています。僕の個人的な初ユニバースはメタルヒーロー『宇宙刑事』シリーズ。3作目の『宇宙刑事シャイダー』最終回で、前シリーズ『宇宙刑事ギャバン』『宇宙刑事シャリバン』を含めた主役ヒーローが勢ぞろいするエンディングには燃えました。
また、戦隊ものやライダーでも最近は劇場版で、前シリーズのキャラと現在放送中のキャラがコラボする映画祭りが恒例となっています。ただ、実写作品では演じる俳優のスケジュールがつかなかったり、すでに引退していたりといった問題があるので難しいところです。
日本の場合、ユニバースはゲームの方が相性いいのかもしれません。ゲームグラフィックなので、データさえあれば誰が描写しても遜色ありません。『ストリートファイターZERO』には『ファイナルファイト』のソドムらが参戦し、両作が同じカプコンワールドであることが明らかになりました。
SNK(現・SNKプレイモア)の『餓狼伝説SPECIAL』に『龍虎の拳』のリョウ・サカザキがゲスト登場した際、僕を含めたゲーマーが感じた衝撃ったらなかったです。その後、『キング・オブ・ファイターズ』シリーズであらゆるSNKキャラが登場し、『ネオジオバトルコロシアム』では、SNKのゲームハード「ネオジオ」で発売された様々なゲームメーカーのキャラが乱戦するに至ります。
カプコンも『X-MEN VS ストリートファイター』に端を発し、『MARVEL VS カプコン』ではウルヴァリンにロックマンが波動砲を発射!等、お祭りを通り越して、同人ゲームかよとツッコミたくなる境地に。ここまで来ると、ありがたさより抱き合わせ感の方が強くなってしまいます。(昔、秋葉原に「WORLD HEROES」なる謎の海賊版ゲームが売っており、中身はマリオやソニック、果てはミュータントタートルズまで、古今東西の<英雄>たちが戦う格闘ゲームでした)。
やはり、「より楽しむ」という意味では同じ作家の方がいいですね。
映画に話を戻すと、タランティーノも一時期そういうことをよくやってました。『パルプ・フィクション』のヴェンセント・ベガ(ジョン・トラボルタ)は『レザボア・ドッグス』のMr.ブロンドことヴィック・ベガ(マイケル・マドセン)と兄弟という裏設定(本編での言及はなし)になっています。
QT(こんな略、最近見ないね)が製作総指揮を務めた『フェティッシュ』の劇中、『フロム・ダスク・ティル・ドーン』の強盗犯・ゲッコー兄弟がTVのニュースとして登場します。ただ、QTの場合、お遊び程度の扱いでキャラクターの心情に深入りするレベルではありません。
さて、こうやって色んなユニバースを眺めてみたわけですが、魅力的なユニバースを構築するためには以下の3つが必要であることが分かります。
「多作」
「キャラクターが魅力的」
「世界観に綻びがない」
まあ当たり前のことではあるんですが、これを全部実行できている例は意外に少ない。白石ユニバースは上記をすべて満たしているからこそ、ここまでの満足度を得られているのでしょう。明日開催の「白石晃士ユニバース」、『コワすぎ!』でしか白石作品に触れたことがない方も是非足を運んで、白石ユニバースの住人になってください。
【『コワすぎ! 最終章』を楽しむためのもう1本!】
白石作品ではありませんが、『コワすぎ! 最終章』をより楽しめる作品をご紹介します。
『スガラムルディの魔女』や『刺さった男』等、最近絶好調なスペインのアレックス・デ・ラ・イグレシアが1995年に発表した『ビースト 獣の日』(ビデオ題:『ビースト 悪魔の黙示録』)。
黙示録の研究に生涯を捧げてきた司祭が、マドリッドに誕生する"反キリスト"を抹殺して世界を救うために悪魔降臨を企てますが、その方法が万引きや老人に暴力を振るう等の軽犯罪。やっていけないことだと分かっていながら、司祭は世界を救うために軽犯罪者の道を突き進みます。この映画のどこが『コワすぎ! 最終章』と通じるのかは観てのお楽しみで司祭に協力することになるのがヘビメタ野郎とオカルトTV番組のインチキ博士という、へんてこトリオも『コワすぎ!』シリーズを思わせます。
2014/6/18 日本映画ほぼ全批評メルマガ『映画の友よ』と私の連載について
映画評論家・文筆家の切通理作さんが昨年末より発行している、メールマガジン『映画の友よ』をご存知でしょうか。
「新しい日本映画を全部見ます」との宣言の下、一週間以上の期間、昼から夜まで公開が予定されている実写劇映画をすべて鑑賞および批評をするという取り組み。
新作映画レビュー・長編批評に加え、足立正生監督や女優・桜木梨奈等、様々な映画人へのインタビューもあり、盛り沢山の内容。
脚本家・百地優子さんのピンク映画論等、他執筆人による連載寄稿もあります。私も執筆陣の一人として、「カセット館長の映画レビュー」を書かせて頂いております。
観客と映画の関係性から見えてくる<映画の在り方>や国もジャンルも異なる作品同士に共通する、隠されたテーマの発見等、毎回視点を変えた映画への論考を行っています。寄稿文の最後には、当店で扱っているVHS作品を紹介する「発掘!名作ビデオ考古学」コーナーも。
書籍媒体やWebサイトとはまた違った情報発信媒体としてあらためて、その価値が見直されているメールマガジンによる、映画の語らい。是非ともご覧ください。
↓こちらから登録手続きが行えます。
夜間飛行メルマガ 切通理作『映画の友よ』
↓こちらのナビでは、目次紹介や批評文の一部公開もあります。
「映画の友よ」ナビ
※以下は、これまで掲載された私の寄稿タイトル一覧です。
■第1回(『映画の友よ』Vol.004掲載)
70年代ニヒリズムとゼロ年代以降を結ぶもの『デビルマン』から『魔法少女まどか☆マギカ』へ受け継がれる、<破壊と再生><愛と友情の闘争>
■第2回(『映画の友よ』Vol.005掲載)
ゲームと映画をつなぐ「ゾンビ」の歴史
■第3回(『映画の友よ』Vol.006掲載)
視聴環境で変わる映画体験。そして「キノコ雲と少女」
■第4回(『映画の友よ』Vol.007掲載)
『キック・アス ジャスティス・フォーエバー』に見る<暴力の永続性>と<超人の孤独>
■第5回(『映画の友よ』Vol.008掲載)
映画における空想からの卒業
■第6回(『映画の友よ』Vol.009掲載)
『LIFE!』〜実直な日々の生活から冒険者は生まれる
■第7回(『映画の友よ』Vol.010掲載)
人は殺意に染まった時、真に解放される〜白石晃士監督作品『殺人ワークショップ』
■第8回(『映画の友よ』Vol.011掲載)
POVホラーの最先端を行く傑作シリーズ『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』の全貌
■第9回(『映画の友よ』Vol.012掲載)
『プリズナーズ』と災厄に備えすぎる人々
■第10回(『映画の友よ』Vol.013掲載)
『キック・アス』『キック・アス2』役者の成長によって、異なるテーマを持ち得た映画と原作
■第11回(『映画の友よ』Vol.014掲載) ※6/20更新
『VHSテープを巻き戻せ!』映画に関わる人々を繋げた世紀の発明「VHS」
2013/11/4 『讐〜ADA〜』陰惨な事件の奥に見える真実。当事者にしか理解できない愛と憎悪の戦い。
『讐〜ADA〜』という映画をご存知でしょうか。
フェイクドキュメンタリー映画を多く手掛ける白石晃士監督がアイドルグループ、アップアップガールズ(仮)ら旬のアイドル達をキャストに据えて撮ったバイオレンス映画です。
カルトな匂いの進学塾(閃光塾という名前がまた如何わしい)で起きた惨劇を、フェイクドキュメントスタイルと劇映画スタイルの2部構成で描いた、野心的な作品。
授業中、突如乱入した塾生の少女・美保によって引き起こされる惨殺事件。美保に殺されかけるも生き残った、同じ塾に通う夕子は自身の肉親まで手に掛けられ、遂には美保への復讐を誓うが…。というストーリーです。
第一部の「戦慄篇」では夕子に密着するディレクターのカメラ視点(POV)のドキュメンタリータッチで美保の凶行と夕子の復讐を描きます。
被害者となる夕子の視点、そして取材カメラや報道映像から事件が伝えられるため、美保の起こした凶行の残忍さをこれでもかと見せつけられます。
情け容赦のない暴力描写は凄まじく、美保が夕子の母親を縛り上げ、顔面を執拗に金槌で叩く場面は暴力映画に見慣れている私でも目を背けたくなる程です。何故、美保はこんな残酷な所業を?
日々報道される陰惨な殺人事件やテロ事件。
人の命を奪って良い正当な理由など一切ありません。それでも「何故そんなことをしでかしたのか?」を知ってしまうと何も言えなくなる時があります。当事者にしか理解し得ない動機が。
第二部の「絶望篇」では美保の視点から、何故彼女は夕子へ憎しみをたぎらせ、鬼となったかを劇映画スタイルで描きます。
「絶望篇」冒頭での美保は大人しく、か弱げな少女として登場します。しかし、ある事件をきっかけに美保は夕子への復讐を誓い、冥府魔道を突き進むこととなります。
本気で鬼にならなければ、あんな残酷残忍な仇討ちはできないでしょう。ありったけの憎悪と殺意を込めて、凶器を振り下ろし続けた彼女がほんの一瞬、元の少女の顔で流す涙には心打たれました。演じる、仙石みなみの演技は本当に素晴らしい。
互いに復讐する者、される者として対峙する美保と夕子。
両者の心理が痛い程に剥き出された後に見えてくる血塗れの真実とは。
それは是非ともご覧になって、その目で目撃して頂きたいと思います。
この映画では様々なツールが凶器として使用されます。鈍器、刃物、銃、カメラ、ネット。特にカメラとネットは、美保と夕子が復讐を誓い合うきっかけとなる事件を引き起こすツールとして使用され、カメラの暴力、ネットの暴力がいかに人の生活を破壊し、取り返しのつかない状況に追い込んでしまうかの危険性を表しています。
そして、本作で描かれる血みどろの復讐劇より最も血の気が引くほどゾッとしたのは、全ての悲劇の発端でもあるカルト紛いな進学塾のPRビデオ映像。
第一部「戦慄篇」の冒頭で流れるこの映像は、胡散臭いセミナーの紹介ビデオやカルト宗教の広報ビデオのような作りになっています。もちろん血の一滴も出ない映像ですが、己の欲望の為に無垢な人々を食い物にし世に絶望と争いを撒き散らす真の邪悪はこういうのなんだろうなと思わせる狂気を感じました。
美保も夕子もこの進学塾に入っていなければ、その手を血に染めることなく、平穏な人生を歩んでいたでしょう。
ある意味でどちらも被害者であって、刃を突き立てるべき本当の相手は進学塾とその存在を許容し、あまつさえ褒め称える世間の構造そのものですが、憎悪がそこには向かわず、互いを殺し合うなんてあまりに悲しすぎます。
真実が晒され、凄惨な復讐劇の幕が閉じた後のエンドロール中、不覚にも泣いてしまいました。愛と憎しみが無数の屍の山を築くこの映画を観た私は永井豪の傑作漫画『デビルマン』を想起しました。
オーディトリウム渋谷で上映された際のトークショーで監督はアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』からのインスパイアを話されておりましたが、なるほど確かに『まどかマギカ』も愛ゆえの孤独な戦いと本人だけが知る戦う理由が、別視点からのストーリーで判明する作品でした。
現在、新作映画『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』が公開中となっています。『まどかマギカ』に感動した人には『讐〜ADA〜』も是非観てほしいです。
2013/10/12 『天使の処刑人 バイオレット&デイジー』ジェームズ・ギャンドルフィーニからの遺言に涙
『天使の処刑人 バイオレット&デイジー』を観ました。
殺し屋稼業を営む二人の少女(?)を描いた青春バイオレンス映画です。
ある日、彼女たちがいつものように請け負った殺しの仕事。
しかし今回のターゲットとなる男は自分の居場所を伝えてきたり、
銃を向けられても至って平然としている。
そんな男の態度や言動に惑わされていく彼女たちだったが…。
という展開を迎えるのですが、このターゲットとなる男を演じているのが今年6月、心臓発作により亡くなった名優ジェームズ・ギャンドルフィーニ。
マフィアの日常を綴りながら、全ての現代人が抱える孤独や怒りを描き出した傑作TVドラマ『ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア』で主人公のトニーを演じた方です。
『天使の処刑人』は2011年の映画となります。ギャンドルフィーニが亡くなる2年前であり、また本作以降も『ジャッキー・コーガン』や『ゼロ・ダーク・サーティ』等、出演作品があります。
しかし、亡くなってから間もなく日本で公開された新作で彼が演じたのが「死を覚悟し、来るべき己の最期を待っている男」であることに何かを感じざるを得ません。私は観ていて、目頭が熱くなりました。
彼の台詞の一つ一つが遺言のように思えて、まるで彼の遺言ビデオを見ている気持ちになってしまいました。
『ザ・ソプラノズ』では、心を病んだマフィアのボスを演じる彼と精神科医の女性(ロレイン・ブラッコ)が向き合い、怒りや悲しみの源泉を探っていく過程が物語の一つの軸となっていました。
『天使の処刑人』では逆に、ジェームズ・ギャンドルフィーニが殺し屋の少女たちの心に触れ、彼女たちの気持ちを引き出していきます(意識された演出なのか、このシーンは『ザ・ソプラノズ』のセラピーシーンと同様に両者が広い部屋の中で椅子に座り向かい合っている構図です)。
映画は、生ある俳優が役を演じ、その様をフィルムに刻み込みます。当たり前ですが、俳優自身も日々の生活があり、悩み苦しむこともあるでしょう。
観客はスクリーンに映し出されるキャラクターを観ると同時に演じる俳優も観ていることになります。『ロッキー』を観た観客はロッキー・バルボアというキャラクターの人生とロッキーを演じるシルベスター・スタローンという役者をその目に焼き付けます。役としてのキャラクターとそれを演じる俳優とは無関係なはずがありません。
だからこそ、『ロッキー・ザ・ファイナル』は第1作目から6作目までの間にロッキーが経験した数十年の重みに、第1作公開の1976年から6作目公開の2006年の間にスタローンが経験してきた30年の人生の重みが伴った深みのある映画となっているのです(つまり、新しく『ロッキー・ザ・ファイナル』のような映画を作ろうと思ったら、今から30年かかります)。
映画はクランクアップから編集等の工程を経て完成し、さらに配給・宣伝があり、観客の前に初めて姿を現します。公開時期のタイミングによっては、時として製作に関わった人々の人生と奇妙なリンクを見せることもあります。
故ヒース・レジャーは『ダークナイト』の後に『Dr.パルナサスの鏡』の撮影を行っておりましたが(撮影途中に逝去)、亡くなってから数ヶ月後に『ダークナイト』が公開されたため、「ジョーカー役に入り込み過ぎ、心身ともに燃え尽きて死んでしまった」等と噂されることもありました。
多少誤った見方かもしれませんが、それによって『ダークナイト』という作品により深みが増すことにもなります。
ジェームズ・ギャンドルフィーニも『天使の処刑人』の後に他の映画に出ておりますが、亡くなってから数ヵ月後に「自らの死を穏やかな態度で受け入れる」役を演じたこの作品が日本公開されたことに意義を感じてしまいます。
2013/7/22 白石晃士監督『カルト』の衝撃。恐怖に踊らされる者、従う者、そして恐怖と戦う者
ユーロスペースで『カルト』という映画を観ました。
優れたフェイクドキュメンタリージャンルの作品を多く手がける、
白石晃士監督の新作です。
霊障に悩まされる母娘の住む家を除霊する模様を密着レポートすることになったタレント達(あびる優、岩佐真悠子、入来茉里が本人役で出演)が体験する恐怖。
現在公開している新作のため、ネタバレしない範囲で書きますが、
世界観が拡がっていく快感、これに尽きます。
ポルターガイスト現象が起きる家の除霊から始まった物語は、その後クトゥルフ神話にも通ずる想像を絶した展開をみせます。そして、度肝を抜く怪人物(『コワすぎ!』シリーズの工藤ディレクターにも匹敵する強烈な男。演じるは三浦涼介)が登場し、いよいよ物語は混迷の度を深めながらも超特急でクライマックスへ向け疾走していきます。
洋の東西を問わず、SFやホラーで無理やり風呂敷を広げ、いつの間にか世界が混沌の危機に瀕していたり、この世の終わりが訪れる映画がありますが、殆どは観客置いてきぼりの打ち切りエンドのような展開で正直ゲンナリしてしまいます。
『カルト』では僅か84分の尺で違和感なく、この世に"魔"が侵食してくる様子が描かれます。こういうのを正しい風呂敷の広げ方と言うのでしょう。
ジャンル的にも基本はホラーですが、心底観客に恐怖を与えた後に笑かせたり、謎解き要素のあるミステリー的展開や終盤での三浦涼介演じる霊能力者のヒロイックな活躍等、そこかしこに様々な要素が散りばめられています。
劇中登場人物の台詞を借りるならば、「仕掛けてやがるな」と。
『カルト』というタイトルとは裏腹にどなたにもお勧めできる、
エンターテイメント作品でした。
白石作品はとにかく、出し惜しみをせず、見たい物をみせてくれる、
そのサービス精神が素晴らしいのです。
幽霊、超常現象、呪い、異次元生物…そういった、"アリエナイ物"を観客の想像力に任せるという、ある意味で"逃げ"ともとれる手法をとらず、これでもかとスクリーンに現出させます。劇中でカメラを回す人物が異形を捉えるのと同時にそれを目撃した我々観客もまた、当事者としての驚愕体験をすることになります。フェイクドキュメント形式のフィクショナルなホラーとして、最高の演出です。
そして、"魔"と真っ向から対峙する人間の強さに熱い物を感じます。
『ノロイ』や『オカルト』では異形の存在に惹かれ、追い求める人間達を描いていますが、『コワすぎ!』シリーズに登場する凶暴なディレクター工藤や『カルト』の最強霊能力者は人知を超えた存在にガチで勝負を挑みます。
どちらのキャラクターも常識を欠いた行動をとり、普通人の目から見ればアウトサイダー以外の何者でもありません。
しかしそんな彼らだからこそ持ち得る、底知れぬ情念やチカラだけが、
"この世ならざる者"と対決できるのです。
悪魔と戦う為に自らも悪魔人間となる永井豪の傑作漫画『デビルマン』のような、ダークヒーローを彷彿とさせます。
彼らと異形の者共との戦いを前に一般人である我々はカメラを通して、
事の成り行きをただ傍観するしかないのです。
ならば、我々は観客として、それを目撃しようではありませんか。
恐怖と驚きと共に。
【映画本編とは別の話】
私が『カルト』をユーロスペースで観た時は上映初日でもあり、場内は立ち見客まで出る盛況ぶり。 白石監督フリークや三浦涼介ファン等、様々な客層だったと思いますが、恐怖シーンでは皆ヒッと息を呑み、ユーモラスな場面では声を出して笑い、最後は拍手で映画の終幕を包むという、なんというか非常に映画鑑賞リテラシーの高い環境(よくシネコンで上映前に流れるNG事項の真逆ですね)で観れたことは素晴らしい体験でした。
こうした映画体験ができるのは稀ですが(最近では昨年カナザワ映画祭で見た『ウォーターパワー』鑑賞時でしょうか)、こんな日は自分が映画鑑賞を趣味として生きてきて、本当に良かったと思えます。
2013/7/15 血も涙もない、真の衝撃映像はお茶の間で流れる。
先日、何気なく夜の報道番組を眺めていたら、
「衝撃映像」と題して、あるニュースが流れました。
それは中国の駐車場で起きた事故を監視カメラが捉えた映像。
停車した車が発進時、近くにいた子供に気付かず、轢いてしまい、
子供はそのまま車輪の下敷きになってしまう、まさに衝撃的な映像。
報道によれば子供はすぐに大人達の手によって病院へ運ばれ、命に別状はないそうですが、子供が車に轢かれるその瞬間を全国ネットのTVで流す(しかも拡大スローモーションによるリプレイ有)のはどう考えても異常としか思えません。
これがネットの動画なら"【グロ】閲覧注意"とタイトルにつけられていたことでしょう。
かつてTVでは悲惨な事件や事故の映像を集めたモンド系番組がゴールデンタイムの花形であった時代がありました。今ではそのような番組はめっきり減り、あっても人はまず死なない(負傷はしても最終的に助かる)映像を流すようになっています。
結果的に助かれば放送してもコード的には問題ないのかもしれませんが、
やはりこれは配慮が必要でしょう。
日本の報道番組では残酷な場面が流れる際に、
「一部暴力的なシーンがあります」や「お子様への配慮をお願いします」と
いった注意が促されることはほとんどありませんし。※震災関連映像を除く。
暴力や悲惨な事件、事故を扱ったドキュメントを普段からよく観ている私でも気分が悪くなってしまうのですから、免疫がない人があの事故映像を見てしまった場合、相当な悪影響があるのではと心配になります。
『飛び出す 悪魔のいけにえ レザーフェイス一家の逆襲』の
胴体真っ二つシーンを見て、「お、頑張ってるな」とほっこりする私ですが、
あの駐車場での事故映像は見ていて痛ましく、気分が悪くなりました。
それは描写がどうのではなく、現実に被害者と加害者が存在する悲劇だからです。
今回、見た事故映像で私が思い出したのは、
昨年、京都で起きた、軽ワゴン車による暴走事故です。
この京都の事故では7人の通行人が亡くなり、電柱に激突したワゴンの運転手も死亡しています。暴走したワゴン車が電柱に激突する瞬間はカメラに収められ、当時報道番組では激突の瞬間(つまり人が死ぬ瞬間と言ってもいいでしょう)が何度も流れました。
※報道によれば病院に運ばれた後に死亡が確認されたとのことですが、死に至る直接のダメージを受けた瞬間であることに違いはありません。
NHKのわずか1〜2分のニュースの中で激突場面が数回(くどいですが、死の場面が繰り返し)も流れていたのを今でもよく覚えています。
TVでホラー物の映画やドラマを流すことに難色を示す人はこのような事故映像に疑問は抱かないのでしょうか。
確かに目に見える形で流血があるわけではありませんが、モニターに映されているのは人の死以外の何物でもないのですから、やはりそこにはネガティブな感情が沸き起こって当然だと思います。それこそ文字通り、物事の表面だけしか見えていないのでは?
どんな残虐なホラー映画でも今の日本の上映事情では、1〜2週間のレイトショーのみ、合計の観客数が1000人にも達しないことだって普通にあります。
さらにあくまで観たい人が能動的に内容を理解した上で鑑賞します。
しかし全国ネットでのTV番組では対象となる視聴者は数十万、数百万単位。
女子アナの二の腕目当てでチャンネルを合わせた人が「子供の死にかけ事故」をいきなり見せられることだってあるでしょう。
私にとって今回見た、中国の事故映像は『ムカデ人間2』より何百倍も見たくなかった本当の衝撃映像でした。
言い換えれば、ホラーの職人達が作り出すフィクションによる残酷映像、暴力描写は、計算と配慮がなされた、誠意あるプロのエンターテイメント作品だと言えるでしょう。
まあ、中には配慮のかけらもない映画もありますが。
『八仙飯店之人肉饅頭』とか。。
2013/6/30 『コンプライアンス -服従の心理-』に戦慄。そしてシネマカリテで感じた、映画の在り方
新宿シネマカリテで『コンプライアンス -服従の心理-』という映画を観ました。
ファストフード店にかかってきた警官を名乗る男からの電話により窃盗の疑いをかけられた女性店員。偽警官の電話指示を受けた店長らによって、身体検査と称して全裸にされ、挙句性的暴行まで加えられてしまう恐ろしい物語。
信じられないことですが、これはアメリカで実際に起きた事件を忠実に再現した映画です。※店名は架空のファストフード店。
権威(警察)への恐れや自身以外への責任の所在、
そして権力や職務を後ろ盾にした個人の秘めたる欲望や憎悪の際限ない発露。
このような事件が起きてしまうのは直接の加害者だけではなく、
周りの「知ってはいても止めない人々」の存在も大きな要因でしょう。
警察と係わり合いを持ちたくない気持ちから生じる保身や
「助けないのは自分だけではない」という負の安堵感。
日本でも起きている学校、職場内のいじめや住宅街での監禁、虐待も最終的な発覚までに気付いていた人々が多くいたはずです。
『コンプライアンス』の鑑賞後、
「自分も騙されてしまうかも」「こんな手に引っかかるわけない」と
あれこれ感想が出てくると思います。
しかし、直接の加害者・被害者となってしまうか否かの問題より、
「騙されず、事態に気付いている自分はこんな馬鹿げた行いを止められるか?」
これこそ考えるべき最も重要なことではないでしょうか。
本作を観たシネマカリテについて。
シネマカリテは昨年の12月、新宿武蔵野館系列のミニシアターとして
オープンした映画館です。
※今の新宿武蔵野館は元々シネマカリテという名称で、新宿武蔵野館は同じビルの上階に別に存在しておりました。閉館した新宿武蔵野館の名前を下階のシネマカリテが引き継いだため、今回のシネマカリテオープンはある意味「復活」になります。
このシネマカリテ、スクリーンは二つあり(それぞれ97席と79席)、ミニシアターという言葉がぴったりくる小規模劇場です。映写機が低い位置にあるため、席から立ち上がると人影がスクリーンに映ってしまいます。
そのため上映前にはその旨の注意喚起アナウンスが流れます。
デジタル上映が主流となり、自宅での大型TVや良質サラウンドシステム完備のホームシアターも珍しくありません。
"映画館で観る"ことと映画館以外での鑑賞スタイルに大きな違いも感じなくなりつつあります。
シネマカリテで映画を観た際、"映画は映写機でスクリーンに光を投影して現出するもの"という当たり前のことを再度認識しました。
古さや懐かしさを礼賛する気は毛頭ないのですが(『ニューシネマパラダイス』はどこが泣けるのか未だに分かりません。おじいさんが燃える所は面白かったです)、
その芸術作品が披露されるべき本来の方法は忘れてはならないと思います。
不便さを極力排除したシネコンのオープンが多い中、こういったスタイルの映画館が新規に誕生したことは非常に喜ばしくあります。
劇場案内によればフィルム上映にも対応しているとのこと。
7月下旬より再上映される『太陽がいっぱい』に時間があれば足を運んでみたいです。
2013/6/9 外国で慌てふためく日本人 〜朝倉加葉子監督『クソすばらしいこの世界』の面白さ〜
先日、朝倉加葉子監督の『クソすばらしいこの世界』という映画を観ました。
オールアメリカロケを敢行した、まさかのスラッシャーホラーです。
日韓留学生のグループが旅行中にお酒とお薬で調子こいていたら、シリアルキラーのアメリカ人兄弟に酷い目に遭わされるというお話。
観客へ常に新鮮な血を提供せんと、赤錆た斧がせっせと振り下ろされる、エンターテイメント精神に溢れたスプラッターホラーでした。
キム・コッビさんと大畠奈菜子さんの血みどろ演技も見ものです。
人気のない荒涼としたハイウェーを舞台にした本作では、言語の壁によるコミュニケーション不通が一つのテーマになっています。
留学生グループの韓国人学生は英語は喋れるけど日本語は分からない。
一方、日本人グループは一人を覗いて皆日本語オンリー。
言葉による意思の疎通ができないことで境地に陥ったりブラックな笑いを生んでいます。
英語圏の国での居住経験や旅行をした人なら、
"英語が喋れて当たり前"という現地での認識を強く感じた人も多いと思います。
英語を発することができても、発音がおかしければ意思の疎通がうまくいかないこともあり、時には気分を害する態度をとられてしまうことも。
(監督もアメリカで英語が通じずに悲しい思いをしたと雑誌インタビューで語っておりました)
『クソすば』は苦い海外旅行経験のある人にはより面白く鑑賞できることでしょう。
映画は同時に多言語を登場させ、さらには発音も演出として武器にできる芸術です。
舞台となる国における言語の扱いや人種的緊張をうまく取り入れ、ドラマを盛り上げる作品も多くあります。
日本映画でも『月はどっちに出ている』や『サウダーヂ』等、在日外国人に焦点を当てた傑作がありますが、外国を舞台にして現地で戸惑う日本人を描いた映画はあまり無いのではないでしょうか。
"日本で戸惑ったり苦労する外国人"ではなく、"外国で慌てふためく日本人"の物語。
バックパッカーを主人公とした"トラブル上等!"ではなく、安全地帯を通りたいのに、異国の地であたふたする羽目になる展開が良いですね。
チップの払いや玄関で靴を脱がない習慣に戸惑うような浅いレベルとは違う、英語が分からずバカにされたり、外国人という理由で言われなき暴力に晒される、そんな作品がもっとあってもいいと思います。
藤子不二雄A先生の傑作短編『シンジュク村大虐殺』(ベトナム帰りの米兵がシンジュク村でボッたくられてブチ切れる)のような話とかできないもんでしょうか。
少なくともメジャーシーンでは難しいかもしれませんね(笑)
2013/5/26 TVからの不意打ち 〜突発的な映像暴力、不意に出会った衝撃映像〜
皆さんは『eveのすべて』というTV番組をご存知でしょうか?
昨年、フジテレビの深夜帯に不定期放送されていた番組です。
放送日時や放送分数は毎回異なっており、
出演者や製作スタッフのクレジットも無い、奇妙な番組。
ある女性の生活模様の盗撮から始まり、女性を見つめ続ける何者かの視点により番組は進みます。女性の日常生活をジっと見つめ続ける謎の人物…。
あまり引っ張るのもなんなので言ってしまいますが、この番組の演出は長江俊和氏。
フジテレビで深夜放送されていたフェイクドキュメント『放送禁止』を手掛けた方です。
『eveのすべて』も一切の説明がないフェイクドキュメント仕立てのドラマです。
※現在はフジテレビのサイト内で長江俊和監督作品として公表されております。
ホラー アクシデンタル(CX-horrors)-フジテレビ
ここでは本編の内容について考察はいたしません。
私がここで強調したいのは、これが劇場用映画やWEBドラマではなく、地上波TV番組という点です。
かつてフジテレビでは実験的なインパクトある深夜番組が多く放送されていました。
『世にも奇妙な物語』の前身となる『奇妙な出来事』やフェイクドキュメンタリー『FIX』。
深夜枠「JOCX-MIDNIGHT」が始まる際のキャッチ「音楽美学」(空中にロープでがんじがらめにされて浮かんでいるピアノが少しずつ落下していく映像)が今も記憶に残っている方は多いでしょう。
劇場での映画鑑賞やWEB動画と違い、TVの場合、見ようと思って見るのではなく、たまたまTVを点けていたら、"それ"が放送されていたということがあります。
"それ"はCMであったりドラマであったり、バラエティ番組であったりと様々です。
そして、"それ"は時として見た人に強烈なトラウマを残すエゲツナイ映像であることや人生の目標を定めるに至る運命的なものである場合も。
ネットが発達する前にこのような、"TVからの不意打ち"を受けた時はそりゃもう興奮とモヤモヤが消えず、朝まで寝付けなかったものです。
これは映画館やWEB上で出会うことはあまりない、TV特有のもの。
長江監督の『放送禁止』第1回放送分は私も偶然、深夜にTVを点けていた時、遭遇しました。新聞のテレビ欄にも「放送禁止」と番組名の記載しかなく、「何だこれは?」と頭に疑問符を浮かばせながら、見入ってしまいました。
途中、「そうか、これはフェイクドラマか」と気づいてからは落ち着いて見てしまったのですが、不意に正体不明の番組が流れ始めた時の不安感や好奇心は作品そのものの持つ力だけではなく、"何気なく点けていたTV"という環境があってこそ成り立つ、まさしくTVのチカラだと思うのです。
映画作品でもTVだからこそ出会えるものがあります。
かつて、テレビ東京の深夜映画枠で繰り返し放映されていた、『金星怪人ゾンターの襲撃』『火星人大来襲』『性本能と水爆戦』等、まず自分からは敢えて見ようと思わない作品達。
深夜残業や乗り気ではなかった飲み会から帰宅し、TVのリモコンを押した時、あるいは学生時代、気だるく夜更ししていた時に遭遇したそれらの映画群は間違いなく見た者の脳裏に焼き付き、その後の人生に影響を与えたはずです。
現在、映画館ではWEBで時間割を調べ、指定した時間、席で観るのが主流となり、見逃したTV番組はWEB配信で後追い鑑賞が今や一般的となっています。
デジタル化により、TV録画も簡単になった今では、リアルタイムで地上波TV番組を見ること自体が少なくなっているかもしれません。
しかしながら、"TVからの不意打ち"という、この特異な出会いを多くの人に経験してほしいと思います。
2013/5/19 リメイク版『死霊のはらわた』に思う、映画との幸せな接し方
先日、リメイク版の『死霊のはらわた』を鑑賞しました。
内容はとてもゴアゴアな成人指定も納得のはらわた祭りで、非常に満足のいく出来でした。
本編中、オリジナルを知っている人には分かる、あるサプライズが用意されておりますが、知らない人には何のことやらさっぱりで、客席にいた多くの人は「何、今の?」とキョトンとしながらも笑っていました。
私はもちろん、分かる派だったのですが、正直別に分かった所でそう盛り上がるものでもありません。むしろ、知らない方がワケワカな面白味を楽しめるのでは?と思い至りました。
オマージュの小ネタ挿入で理想とされる形は、
「知らなくても楽しめるけど、知っているとより楽しい」というものですが、
リメイク版『死霊のはらわた』のサプライズは、
「知っていると楽しめるけど、実は知らない方がもっと楽しい」という今までにないもので、もしこれが監督やサム・ライミら製作者の明確な意図であれば、なんともクレバーです。
近年、ゴア要素のある本格スプラッターが全国規模で公開されることは少なくなりました。1日1回レイトショーのみや単館系上映ではどうしても本当にそれが好きな人達が集うこととなり、それはそれで仲間意識を感じる黒い共有体験ができますが、コケオドシのショックシーンが満載された、はわらた祭り映画は不特定多数の観客で埋まった劇場内でワーキャー騒ぎながら観てこそ、魅力の花が開くのではないでしょうか。
数年前の元旦、チケットが1000円ということもあり、近所の映画館で『エイリアンVSプレデター2』を観た時のことです。
場内には初詣帰りと思われる振袖姿の御婦人や家族連れが多く見受けられました。
きっと時間が余って暇だったのでしょう。
まさにコケオドシ映画を観るにふさわしい不特定多数が集う環境でスクリーンに映し出されたのは、怪物が妊婦の腹を喰い破って飛び出し、子供も容赦なく犠牲になり、挙句、街1つ壊滅して終わるという血みどろの地獄絵図。
こんな映画を正月から老若男女皆で観ているなんて日本の映画業界は明るい!と当時の私は希望を抱いたりしたものです。
おそらく過半数の観客がサム・ライミの名前すら知らないであろう状況で観た、リメイク版『死霊のはらわた』は私に数年前の「正月『AVP2』体験」を思い出させ、やはりホラーは皆で観るもんだという思いを強く刻み込みました。
今後もたとえ数は少なくても、年に数本は全国規模で公開される、コケオドシホラーの登場を期待しています。
2013/5/12 魅惑のフェイクドキュメント 〜白石晃士監督の恐怖演出〜
皆さんはフェイクドキュメントというジャンルをご存知でしょうか。
あたかも実際に起きた出来事のように構成されたドキュメンタリー形式の作品です。
モキュメンタリーと呼ばれることもあります。
有名なものでは『食人族』や『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』、
『クローバーフィールド』等があります。
フェイクの中でも2つに分けることができ、
それは
「作品自体が実際に起きた出来事を収めた物という体裁」
「作品自体はフィクションで、本編中の進行がドキュメント形式」
となります。
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は前者にあてはまり、撮影した学生達は本当に存在し、今も行方不明という体裁で宣伝展開されました。
『クローバーフィールド』は後者にあたり、観客は映画で描かれた出来事がフィクションであることを知った上で鑑賞に臨みます。
前者の場合、実際に起きた出来事であるという体のため、あきらかなフィクション要素(怪獣や宇宙人)を盛り込むのは難しくなります。
後者の場合はあらかじめフィクションであると分かっているので、存分にモンスターや超自然現象を出すことが可能です。
しかし、その描写によってはドキュメント形式という構造自体を壊しかねないためそのリアリズム性に注意が払われます。
大抵はチラチラとした朧げな描写に留まり、中には登場を匂わせるだけで結局何も出て来ない!という映画も存在します。
『ブレア・ウィッチ〜』の体裁であればともかく、フィクションとしての演出が許されているにも関わらず直接描写を避けるのは観ている側として楽しくありません。
日本で良質なフェイクドキュメンタリー形式の映画を多く手掛けている、白石晃士監督という方がおります。
全国公開された『ノロイ』はTVCMも多く流れたので、ご存知の方も多いと思います。
心霊ホラー『オカルト』や『戦慄怪奇ファイル コワすぎ! 』シリーズでは、この世のものではない"何か"が登場します。
ネタばらしになってしまうので、詳細を書けないのが残念ですが、その"何か"は申し訳なさげな一瞬の登場ではなく、スクリーン全てを覆い尽くすかの如く、堂々とその姿を現出させます。
あきらかに現実には存在しない"何か"がフェイクドキュメントという枠に収まることで、現実感を帯びるのです。これこそが通常のフィクションでは体験できない、フェイクドキュメントならではの味ではないでしょうか。
登場人物も役者が演じていると分かっているのに、
描かれる異形のモノも特撮だと分かっているのに、
貞子やジェイソンとは全く違う驚きと恐怖を感じてしまう。
自主映画時代からフェイクドキュメントの可能性を探求し続けてきた、白石監督だからこそ出来る演出です。
『コワすぎ! 』シリーズ第4弾、「FILE-04 真相!トイレの花子さん」では、もはやカメラが異形を捉えるのではなく、描かれる世界そのものが異形と化し、「異形がカメラを捉える」離れ業を見せてくれます。
これはもう、フェイクドキュメントの演出云々を超えて、映画史に刻まれるべき画期的演出です。
このようにフェイクドキュメントジャンルにはまだまだ未知なる演出の可能性が眠っているのではないでしょうか。これまでフェイクドキュメントに馴染みのない方は是非ともこの魅惑のジャンルに触れてみてください。
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