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更新日:2016年4月24日 過去記事はコチラ ■2016/4/24 ジャンル映画の手法で描かれる3.11の悪夢と再生 忘れられぬ記憶の旅 篠崎誠監督『SHARING』 2016年4月23日より、篠崎誠監督の『SHARING』が公開されています。『殺しのはわらた』などのバイオレンス活劇も得意とする篠崎監督がジャンル映画の手法を用いて、東日本大震災後の日本に生きる人々の心情を描いた本作は、他のアフター3.11映画とは違った印象があり、さらにはあの東宝特撮映画との共通点までも見出せる作品でした。僕が本作を初めて観たのは、2014年11月22日(土)〜30日(日)に開催されていた、国際映画祭「第15回東京フィルメックス」での上映時です。今回、一般公開が開始されたことを機に、当時メルマガ『映画の友よ』に発表した原稿に一部修正を加え、ここに掲載いたします。 ※【ご注意】終盤近くまで詳しくストーリーを追っているため、ネタバレを避けたい方は作品を鑑賞後にお読みいただければ幸いです。 『SHARING』は立教大学の「現代心理学部 映像身体学科」(「身体」と「映像」を中心テーマに映像が人間のあり方に及ぼす影響を追及する学科)に籍を置く、篠崎誠監督が文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業による「新しい映像環境をめぐる映像生態学研究の基盤形成」プロジェクトの一環として、製作したものです。篠崎監督は96年に寺島進主演の『おかえり』で長編デビュー。桐野夏生原作『東京島』(2010)や北野武監督『菊次郎の夏』のメイキングドキュメンタリー『ジャム・セッション 菊次郎の夏<公式海賊版>』(99)等のメジャー作品を手掛ける一方、殺し屋たちの残酷バトルロイヤルアクション『殺しのはらわた』(2006)や究極のホラー映画が全世界に呪いを拡散させる『死ね!死ね!シネマ』(2011)等、往年のジャンル映画を思わせる血と暴力に彩られたインディーズ系でも活躍する多才な作家です。 これから『SHARING』のストーリー紹介と共に作品の本質を考察していきたいと思います。 -------------------------------------------------- 『SHARING』あらすじ 2011年3月11日、東北を中心に東日本を襲った巨大地震から3年。東京にある大学の心理学科准教授・川島瑛子(山田キヌヲ)は「3.11が起きる前に震災の夢を見た」と訴える人々が多くいることに興味を抱き、調査を行っていた。彼女は震災で恋人を亡くしており、今でも辛い記憶に苦しみ、恋人が出てくる夢を度々見る生活を過ごしていた。そんなある日、彼女は亡くしたはずの恋人を大学構内で見かける。その頃から瑛子の周囲では、不可思議な現象が起きるようになる。一方、同大学の演劇学科に通う学生・水谷薫(樋井明日香)は卒業公演として3.11をテーマにした舞台の稽古に励んでいたが、共演者から投げかけられた、自分たちが震災の被害を直接経験していない後ろめたさに動揺を感じ、思うように稽古が進まない。薫は舞台稽古をきっかけとして見続けるようになった、震災の夢にうなされており、ふとしたきっかけから、瑛子に夢の内容を相談することになる。3.11の記憶に苛まれる、瑛子と薫が出会った時、二人の心の旅はどこへ行き着くのか…。 -------------------------------------------------- Jホラーを思わせる心霊演出で何気なく登場するドッペルゲンガー(図書室で本当に何気なく、同じ顔の司書が二人並んで仕事している!)や亡霊が醸し出す不安感、夢で目撃する大爆発のビジュアルショック等、通常ホラーやサスペンスで扱われる要素が3.11後の変質した日常を捉えたドラマの中で違和感なく有機的に機能しています。 ◇原発を通してめぐる時間の旅 東日本大震災は津波と原発事故という二つの大災害を引き起こしました。瑛子の恋人は津波で命を落としており、さらに彼女の心にはもう一つの災厄、原発事故も心のおもりとなり、のしかかっています。瑛子は今は東京に住んでいますが、幼い頃は福井で暮らしていたという過去が。核燃料サイクル計画として建てられた、高速増殖炉「もんじゅ」が建設されていく様を見ていた幼い頃の瑛子はもんじゅをタイムマシンだと思っていたと、同僚の河本に話します。「負の遺産」である使用済み核燃料を扱う施設を目にしてきたヒロインが、原発事故と津波を引き起こした震災の消えない過去の記憶と向き合っていくストーリーは彼女の心の中の時間逆行の旅とも言え、核施設をタイムマシンと呼ぶのはただの子供の勘違いではなく、この映画の本質「記憶」を表しているとも言えます。 震災の予知を見たという人々はメディアの発信情報や自身の揺らぐ精神状態から、あたかも自分が体験したことと錯覚してしまう「虚偽記憶」であると、瑛子は大学の講義で学生たちに説明します。学者として理性ではそう認識しつつも、「夢を誰かに話していれば助かった人もいたのでは」と語る、予知を見た人々の証言収集を続けるのは、震災の日に宮城出張へ行き、犠牲となった恋人の記憶が今でも瑛子を苦しめているからなのかもしれません。瑛子を演じる、山田キヌオは役作りとして、撮影前に夜行バスで一人福井を訪れ、もんじゅを数時間眺めていたと東京フィルメックスのQ&Aセッションで語っていました。 また、原子力発電所ではなく核燃料サイクル施設が登場するのも、『SHARING』が他のアフター3.11映画と違う特異点。未来のためのエネルギーを生み出し続ける原発と違って、一度生み出された厄介な負債の処理問題。物理的なエネルギーにしても、人の心にしても、過去の記憶から逃げず、負債を清算しなければ未来を築くことはできない、そんなメッセージを感じました。 ◇非被災者としてイメージする震災 本作のもう一人のヒロイン・薫は卒業公演として、震災をテーマにした舞台の成功を目指して、仲間たちと稽古に励んでいました。ある日、共演者の一人から、舞台出演者が全員被災地出身でもなければ、震災で家族を失ったわけでもないのに、それを表現しようとすることに不安と後ろめたさを感じると言われてしまいます。「だったら、人を殺したことがないと人殺しの役はできないの?」と言い返す薫。自信をなくした仲間たちは徐々に抜けていき、最終的には薫だけが一人芝居という形で舞台に立つことになります。 舞台のストーリーテーマ自体が「非被災者が被災者を演じる葛藤」であるため、映画を観ている我々には彼らのやり取りが「舞台の稽古」(劇中劇)なのか本当に議論を交わしているのか区別がつかなくなるスリリングさがあります。舞台や映画に限らず、戦争や巨大災害を扱う作品を作る場合、この手の「経験者であるか否か」は常に指摘され得る問題。『SHARING』は「アフター3.11作品を作ることの難しさ」についての映画でもあるのです。 ◇ヒロインたちが対峙するもの 驚愕のSFファンタジー展開 大学で瑛子が語った震災の夢に関する講義を聴いた薫は、自分が見た夢の内容を瑛子に話します。津波が襲ったあとの街で、失った家族を思い悲しみに打ちひしがれ、水面にただ浮かんでいる夢。自分にはサチコという娘がいることや、手には痣があったとディディールまで語る薫。彼女はこの夢を、実際に自分が体験したことだと言います。3.11の時、被災地にいなかったのにも関わらず。瑛子はそれを舞台の役作りにのめり込み過ぎた精神状態がもたらす、虚偽記憶だと説明しますが、薫は認めません。自分が見た夢は絶対に実体験であると。その夢の中で、子供の名前や痣等、具体的イメージをもって災厄を経験したと言い張る。それでも瑛子は薫を否定します。おそらく、瑛子は薫の告白を本心では信じたかったのでしょう。しかし、それを認めてしまうのは学者としてのポリシーに反することでもあり、何より予知夢のようなものが本当にあるとしたら、失った恋人を救えたのではないか? という思いがあったのではないでしょうか。結局、瑛子と薫の意見は衝突し、もの別れに終わってしまいます。 薫の一人舞台当日。ここから映画はSFファンタジーの様相を見せ始めます。観客席に座る瑛子は自分の隣に亡き恋人が座っているのに気づきます。これも夢か? 幻影か? どちらにせよ、自分と恋人との関係性に一つの決着をつける時が訪れました。生前、きちんと別れを告げられなかった恋人と最後の会話を交わす瑛子。ここは本作でのクライマックスとも言える場面です。自分の気持ちに区切りをつけることのできた瑛子を見た恋人は去っていき、瑛子は薫の舞台を見届けます。薫の芝居は、彼女が夢に見た震災の経験を演じるというもの。舞台の上に仰向けで寝そべり、震災の恐怖や悲しみを語ります。夢で見た被災体験を芝居を通して追体験することで、薫は夢と現実を統合させ、わだかまりを克服しました。舞台は拍手喝采の中、幕を下ろし、瑛子は薫の笑顔を見て安心した表情を浮かべます。 瑛子に「亡き恋人との最後の会話」というファンタジーが訪れたように、薫も一種のファンタジーを経験することになります。舞台を成功させた薫は後日、電車の中でサチコと思いがけない再会を果たすことになるのです。現実には会ったことがないはずなのに、名前や痣は夢で見たとおり。薫は驚愕しつつも何かを理解したような表情を見せます。亡き恋人との対話や夢で見た人物との邂逅等、この終盤の展開にはSFファンタジーのテイストを感じます。「時間遡行」や「輪廻」が盛り込まれたSFアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』や愛の力で時間を越えようとする『ある日どこかで』(80)を彷彿とさせるものがありました。ヒロインたちは自身が抱える苦悩と対峙し、遂にはそれを克服します。これで物語は明るくエンドロールへ? いやいや、『死ね!死ね!シネマ』で世界中に映画の呪いをばら撒いた篠崎監督がそんなエンディングは用意しないでしょう。事実、瑛子は最後に夢の中でまた「もんじゅ」の前に立たされることになります。目の前で「もんじゅ」は大爆発を起こし、直後に彼女は目を覚まします。そして、起き上がった瑛子が目にするものは…。 それは劇場で瑛子とともに体感してください。 次章では篠崎監督が『SHARING』以前に手掛けた、もう一つのアフター3.11映画について、本作との類似性や相違点を見ていきたいと思います。 ◇篠崎誠監督もう一つのアフター3.11映画『あれから』と本作との相違点 篠崎監督は2012年に発表した『あれから』でもアフター3.11をテーマにしました。この作品では東京に暮らすヒロインと被災地にいる恋人との関係性を通して、被災地と非被災地の距離感や忘れえぬ震災の記憶が何気ない日常の中に不気味に忍び込む様子が描出されていました。『あれから』とは違うアプローチで3.11を描いてみたかったという『SHARING』は、心霊現象や爆発といった、ジャンル映画の手法が駆使された、今までにないアフター3.11映画に仕上がっています。高校時代に撮った短編で扱った「ドッペルゲンガー」「予知夢」を今回の映画で活かせないか考えたと東京フィルメックスでのQ&Aセッションで篠崎監督は語っておりました。静けさ漂う人間ドラマだった、アフター3.11映画『あれから』とは趣の異なる『SHARING』ですが、実は両作には繋がりがあります。とはいっても、ストーリー上の直接な関連はあまりなく、両作に共通する同人物が登場します。それは瑛子の同僚である、河本。彼は『あれから』でも同じキャラクターとして登場。酒好きで立川談志の名言を引用する、飄々とした愛嬌あるキャラクターは瑛子が気楽に愚痴をこぼせる相手であり、不穏な空気が終始流れている作品内で一息つける給水スポットの役割を果たしています。河本を演じる木村知貴は僕が「カナザワ映画祭2014 期待の新人オールナイト」で観た『SLUM-POLIS』でも不敵な笑みを浮かべるヤクザ役で印象深い存在感を示していました。もっと活躍してほしい俳優です。 ※2016年4月29日(金・祝日)、30日(土)に木村出演の16作品を上映する「木村知貴映画祭」が調布市・映像シアター(調布市文化会館たづくり8階)で開催! ⇒「木村知貴映画祭」公式サイト また、『SHARING』でヒロインの一人・薫を演じた、樋井明日香は『さよなら歌舞伎町』(2015)で福島出身の専門学校生を演じています。『SHARING』では非被災者として、震災をテーマにした舞台をどう表現できるか悩む役柄ですが、『さよなら歌舞伎町』においては、被災地にいる両親に負担をかけないよう、AV女優の仕事で学費を稼ぐ被災地出身者という役柄。『SHARING』と『さよなら歌舞伎町』、震災後日本の視点から、両作を見比べてみるのも面白いかもしれません。ドッペルゲンガーや予知夢、心理学をテーマに盛り込み、心霊現象や爆発、果てはSFファンタジーの要素まで取り入れた3.11映画『SHARING』。本作を観ていた僕は、鑑賞中に邦洋含めた過去のいくつかの名作との相似点を発見しました。 次章からは、僕が特に類似性を感じた、2つの作品との関連性を見ていきたいと思います。 ◇夢と現実の狭間で 『ジェイコブス・ラダー』との共通点 僕が本作を鑑賞中に度々想起した、あるアメリカ映画があります。それはエイドリアン・ライン監督が1990年に発表した『ジェイコブス・ラダー』。ベトナム戦争に従軍したジェイコブ(ティム・ロビンス)は除隊後、郵便局員として日常を過ごしていましたが、周囲で得たいの知れない奇妙なクリーチャーを目撃、さらに夜毎悪夢を見るようになります。地獄の戦場、出兵前に死んだ息子の記憶に苦しみながら、次第に夢と現実の区別がつかなくなっていくジェイコブ。謎の死を遂げた戦友の葬式で再会した他の戦友たちも自分と同じ体験をしていることを知ったジェイコブは戦場で行われた軍の実験が関係していると考え、真相を究明しようとしますが…。 というストーリーです。 タイトルは旧約聖書のヤコブの梯子(天使が上り下りする、天地を繋ぐハシゴ)を意味しています。「家族の死」「戦争」という非日常のカタストロフを体験した男が平和なはずの日常の中で、過去の記憶に苦しみながら夢と現実を行きつ戻りつし、真実を求める男の姿を描いた物語。謎のクリーチャーや軍の暗躍のミステリーなどの要素をまぶし、追跡劇や爆発も盛り込んだ複雑な構成となっています。最後、ジェイコブに訪れる救済が深い感動をもたらす名作です。『SHARING』の瑛子も夢と現実の狭間で苦しみ、時折見かける亡き恋人が、果たして夢なのか妄想なのか、それとも現実にそこにいるのかもはや区別がつかなくなっていきます。大学に爆弾が仕掛けられた夢を見るサスペンスシーンもあり、また冒頭テロップと劇中の黒板に神やキリストについて触れた言葉が映し出されもし、そういった点でも『ジェイコブス・ラダー』と通じるものを感じ取れます。 ◇水爆大怪獣映画から受け継いだもの 『SHARING』では、大切な人を失った悲しみのドラマと同軸で原発、放射能に対する恐怖のドラマも描かれました。特撮も使用したフィクション劇で原発の恐ろしさを描いた本作は、放射能怪獣が大暴れする、あの東宝特撮映画『ゴジラ』(54)から受け継いでいる要素が見受けられます。戦中に軍から依頼された戦争映画を手掛けていた円谷英二が特撮を、8年間の従軍経験をした本多猪四郎が本編監督をそれぞれ務めた、水爆大怪獣映画『ゴジラ』は戦後の東京を核実験により蘇った怪獣ゴジラが襲撃する物語。戦争終結から9年、街は復興していますが、戦争で受けた傷を引きずり、平和な日常に馴染めない人々の心の苦しみも映画は描いています。『SHARING』も震災から3年経ち、被災地のガレキは撤去され、東京でも被災地のことはあまり話題にされなくなっている状況で、震災の苦しみに今も苛まれている人々が登場します。爆発シーンもある本作の特撮を手掛けるのは田口清隆。彼は自主制作で『大怪獣映画 G』(2007)を作り、『へんげ』(2011)や『THE NEXT GENERATION -パトレイバー』(2014)の特撮パートを担当、TV作品でも『ウルトラゾーン』や『ネオ・ウルトラQ』、『ウルトラマン・ギンガS』の特撮を手掛けています。『SHARING』では大学に仕掛けられた爆弾の炸裂や「もんじゅ」の大爆発を観る者の想像に委ねず、特撮技術で視覚的に直接描写として見せています。 この「災害を実際に描写すること」は物語を語る上で重要です。スマトラ沖地震から物語が始まる、スペイン映画『インポッシブル』(2012)とアメリカ映画『ヒアアフター』(2010)では、津波シーンをCG特撮や実際の水流を駆使して表現しました。災厄を視覚情報として再現するからこそ、その恐怖がダイレクトに伝わることもあります。日本では今でもニュースで東日本大震災の津波映像が流れる際、警告テロップが表示されるのを目にします。また、3.11を扱ったフィクション劇でもいまだ震災で直接人が死ぬシーンの描写は遠慮されているように思えます。『SHARING』での「もんじゅ」爆発は夢の中で起きたものではありますが、アフター3.11映画でダイレクトに核施設が爆発する様を見せたことは挑戦だったのではないかと思います。 戦後映画の『ゴジラ』、アフター3.11の『SHARING』、どちらもカタストロフ後の日常を舞台とし、放射能の恐怖や消えない過去の記憶を特撮技術が駆使された娯楽ジャンル作品として表現しています。『ゴジラ』から60年後に製作された『SHARING』にはフィクションを通して、放射能災厄を描こうとする映画作家の強い意志が受け継がれているように思えます。 ◇どれもが真実 3つの『SHARING』 2016年4月23日より本作を上映しているテアトル新宿では、通常上映している111分版とは異なる99分のアナザーバージョンも上映されます(他の上映劇場については下記の公式サイトにてご確認ください)。111分版は、東京フィルメックス上映版から一部のシーンの時間を短くし、新たにワンシーン(原発反対デモの場面)を追加したもの。99分版は未見ですが、単に111分から時間を短くしたものではなく、99分版にしかないシーンもあり、鑑賞後の受ける印象もまったく違ったものであるそうです。どれが完全版ということはなく、どれもが真実の『SHARING』なのでしょう。 本作では震災からの時間の経過がもたらす人心の変容が描かれています。僕が2014年の11月、つまり東日本大震災から3年半後に東京フィルメックスで鑑賞した時と今年の3月11日、あれからちょうど5年後に111分版を試写で観た時とでは感じ方にも違いがありました。時間の経過やその過程での経験により、あらゆる物事との距離感や印象は変わります。映画もその一つで、子供の頃に観た時、ピンとこなかったり登場人物の行動が理解できなかったのに、大人になって観直すと感情移入できるようになっていることはよくあります。僕も『地獄の黙示録』や『タクシードライバー』を初めて観た中学生の頃は主人公の行動がサッパリ理解できませんでしたが、高校卒業後くらいに観た時は感動していました。数年の経験で心がすさんだんでしょう。それはともかく、時間の経過による印象の変化は『SHARING』についても言えます。今回の上映で初めて観た方もしばらく時間が経って再度観直すとまた違った印象を受けるかもしれません。それに、111分版を観た方は99分版を、逆に99分版で初めて観た場合は111分版も観ることで、さらなる本作への理解度や楽しみが増すことでしょう。是非、ご覧ください。 映画『SHARING』 【現在公開中】 東京 テアトル新宿 【5月1日(日)〜】 広島 横川シネマ 【5月29日(日)】 長野 松本CINEMAセレクト主催上映会@まつもと市民芸術館小ホール 【近日上映予定】 大阪 シネ・ヌーヴォ ※上記は2016年4月24日時点の情報です。詳細なスケジュールや公開期間は各劇場のHP等にてご確認ください。 ■2016/4/10 意識と無意識の狭間から滲み出るもの。葛藤から生まれた、この本は映画そのものだ。 映画評論本『映画なしでは生きられない』(真魚八重子著) 先週末、発売された映画評論本『映画なしでは生きられない』(真魚八重子著 洋泉社刊)を読みました。著者の真魚氏は映画著述業者として、映画系の雑誌や書籍での執筆、朝日新聞の映画評などで知られています。2014年に出版された前作『映画系女子がゆく!』(青弓社刊)は、「映画を通して女子を読み解く」をテーマに、映画から見えてくる女性の感情や本音を読み解いていく内容でした。本作では、全23章でテーマ毎に作品や監督、俳優の魅力について論ずる形式となっています。「第8章 巨匠でいいのか?! ビリー・ワイルダーのいびつなセックス観」では、ロマンティック・コメディの巨匠と誰もが認める映画監督ビリー・ワイルダー作品に言及し、今観てもドン引きしてしまうインモラルな恋愛感覚、セックス感を指摘しつつも、世間のワイルダーへのイメージと実作品とのギャップを面白おかしく暴くのではなく、そのようなモチーフを扱いながらロマンティック・コメディとして包んでしまう異形とも言える作家性が強烈な個性として着目されるべきだと論じます。 『映画なしでは生きられない』表紙 全体を通して、小難しい理論めいたものではなく、読みやすくも奥深い語りのスタイルは映画好きの友達から飲みの席でタメになる一講釈を聞かせてもらったようなフランクさがあり、帰りにレンタルショップで話に出てきた作品を借りたくなる、そんな感じを受けます。映画はどこに着目するかでいくらでも面白さが変わるもの。韓国映画『4人の食卓』は当時、心霊スリラーものとして観て、そんなに面白い印象がなかったのですが、「第21章 死者の横やり――悲しい恋、悲しい出会い『LOFT ロフト』『4人の食卓』」にて言及される「他者への理解と信頼」というポイントで捉えると、こんなにも壮絶な物語だったのかと驚愕。『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』も、この本を読むまでラストの意味を誤解していました。『レスラー』と同じだったんですね。そう考えると泣いちゃうな。本の中で語られる未見の作品はもちろん、すでに観た映画も、もう一度観直したくなります。 この本の中で、何度か出てくる言葉が「瞬間」と「無意識」。「瞬間」と「無意識」は映画の本質です。あるワンカットや俳優が一瞬見せた仕草に、その登場人物の生き様が凝縮されていたり、作品のテーマが内包されていることは多くあります。また、全体としては作りが甘い映画であっても、その瞬間だけは唯一無二の光を放っている作品も。そして「無意識」。演出家や演者が抑制しようとしても、知らず知らずのうちに滲み出てしまうものこそ、最も重要な“核”と言えます。「100の意識より、1の無意識こそ本質を伝える」という言葉もあるくらい(今、僕が作った)。あとがきによると、元々は「女子に勧める映画」という企画で始まったものの、性別で分けることのできない問題や女性性にカテゴライズする難しさもあり、結果的には「性別不明な評論」と「滲み出る女性性」の間を揺れる内容に仕上がったとのことです。自分の情念に従って、吐き出すように書かれた映画論(それはそれで面白くもありますが)や理知的にコントロールされた論考とは異なり、例えば淀川長治さんの映画解説や著作もそうなんですが、優しい語りの中に、淀川さんの出自や世の中に対する価値観が時々漏れていて、ドキっとします。『映画なしでは生きられない』でも文章の端々に、映画に託す著者の本音が漏れ出ているように感じます。映画は流れていくもの。2時間かそこらの中で最も印象深く残るのは、「瞬間」と滲み出た「無意識」。この本も同じく、250ページ弱の中で、意識と無意識の葛藤が繰り広げられたに違いありません。映画は作るのも葛藤、観るのも葛藤、そして論ずるのもまた葛藤。この本は「映画の評論文を収めた本」ですが、映画評論本というだけでなく、これ自体が、映画といってもいい「映画本」です。 映画は感受性が高ければ高いほど面白く観られます。紹介される作品の感じどころを教えてくれる本作は、帯に役者・橋本愛の推薦文もあるように、10代、20代の若い人にこそ読んでほしい。もちろん、酸いも甘いも経験した大人の映画好きにもおススメです。 前作の『映画系女子がゆく!』 ■2016/1/6 脱力支援アイドルがゆる〜く死体と戯れる!朝倉加葉子監督『女の子よ死体と踊れ』 アイドルグループ・ゆるめるモ!の初主演映画『女の子よ死体と踊れ』を昨年鑑賞しました。監督は全編アメリカロケを敢行したスラッシャーホラー『クソすばらしいこの世界』で長編デビューした朝倉加葉子。今回はこのガーリーテイストあふれる、不思議なアイドルホラー映画をご紹介します。 ※本文はメルマガ『映画の友よ』への寄稿文を加筆、修正したものです。 ※【ご注意】大きなネタバレはありませんが、レビューする関係上、多少ストーリー展開や見所にも触れております。観る前に一切の情報を入れたくない方は、作品を鑑賞後にお読み頂ければ幸いです。 ◇日本をゆるくするアイドルがゆる〜く死体と戯れる -------------------------------------------------- 【あらすじ】 清掃会社に勤務する5人の女の子(“もね”、“けちょん”、“しふぉん”、“ようなぴ”、“ちーぼう”)はある日、森で少女の死体を見つける。特に驚く様子もない彼女たちはその場のノリで、ブラックメタルバンドの儀式を真似した術式を適当に行い、少女“あの”を蘇らせる。“あの”は元々、自殺場所を求めて森へやってきたが、そこである理由により不本意な死を遂げたのだった。再度、“あの”は本来の目的である「自死」を行おうとし、“ちーぼう”たちも快く自殺幇助する。しかし、“ちーぼう”たちが適当な儀式で蘇らせた結果、“あの”は中途半端な状態で復活しており、体が切断されようと、高所から落下しようと死なない不死の身になってしまった。ゆるゆるとガールズトークを楽しみながら、自殺チャレンジを繰り返す“ちーぼう”たちに待ち受けている結末とは…。 -------------------------------------------------- 本作はカルチャー雑誌『TRASH-UP!!』の製作による映画です。継田淳監督『BELLRING少女ハートの6次元ギャラクシー』(2014)に続いての第2弾となります。主演を務めるのは、6人組アイドルグループ・ゆるめるモ!。「窮屈な世の中で頑張って疲れた皆さんの“凝り”を、私たちが“ゆるめるもん”!」をモットーにした「脱力支援アイドル」で、つなぎ衣装にニューウェーブサウンドが特徴です。 ↓ゆるめるモ!のミュージックビデオ ゆるめるモ! "Hamidasumo!" (Official Music Video) 劇中ではゆるめるモ!ではない人物をメンバーが演じておりますが、役名はそのまま、ゆるめるモ!のメンバーと同じ名前です。それぞれに性格付けがされており、おそらくは実際のゆるめるモ!としての彼女たちのキャラクターに沿っているのでしょう。私はゆるめるモ!をほとんど知らない立場だったのですが、映画を観ていて、「そうか、これが彼女たちらしさなんだろうな」と感じさせる魅力がありました。アイドル映画にとって重要なのは、そのアイドルたちの普段のキャラクターや仕草が映画の中で現れていることです。それがなくては、ファンが楽しめないのはもちろん、ファンでない人にもアイドルの魅力は伝わりません。そういう意味で本作はアイドル映画として、十分に機能を果たしています。 ちなみに私は初日に観たのですが、その時はゆるめるモ!のミニライブ付きで、会場には彼女たちのファンが多数詰め掛けていました。映画上映中は静かに鑑賞し、ミニライブ時はサイリウム掲げての大盛り上がり。分別のついた行動を取る、とても素晴らしいファンの方々でした。 ◇多様な恐怖を描出する、ホラー作家 朝倉監督は、ホラーオムニバスドラマ『怪談新耳袋 百物語』の「空き家」で商業デビューし、その後も『クソすばらしいこの世界』(2013)やBS-TBSの『スマホラー劇場』「悪魔召喚」(2014)、『リアル鬼ごっこ』のスピンオフ『リアル鬼ごっこ ライジング』の一遍「佐藤さんの正体!」(2014)と主にホラーを撮り続けています。『クソすばらしいこの世界』でアメリカを舞台に連続殺人鬼が暴れまわる血塗れスラッシャーを手掛けたかと思えば、『リアル鬼ごっこ ライジング』では、ストーカーを題材に、女子高生同士の歪んだ愛の形を描いてみせ、多彩な恐怖を観客や視聴者に届けています。 バイオレンスの描き方も作品によって異なる見せ方がなされ、『クソすばらしいこの世界』では斧や刃物を使った即物的な肉体バトルが展開し、「佐藤さんの正体!」においては、女同士のキリキリする心理的な神経戦が描かれていました。 BS-TBSのホラー番組『スマホラー劇場』では、アイドル・東京女子流をキャストにホラードラマを演出。このドラマは『貞子3D2』スマ4D版と同様に、スマートフォンアプリと連動した仕掛けが施されており、映像内のショックシーンになるとアプリが作動し、スマホから恐怖のメッセージが流れる等のギミックで楽しませます。ギミック映画は、椅子に電気ショックを仕掛けたウィリアム・キャッスルや『13日の金曜日 Part3』の3D仕様版(現在のデジタル3Dではなく、赤青セロハンのペラペラ眼鏡で観るアレ)等、昔からホラージャンルとの親和性が非常に強いものでした。デジタル3D映画も、私がこれまでに観た中では、つるはし殺人のオンパレード『ブラッディ・バレンタイン3D』が最も3D効果を発揮していたと断言できます。日本でもホラー映画のギミック上映は盛んで、『ファンタズム』(79)公開時に東宝東和が「脅威のビジュラマ方式」を考案したことは伝説となっています(結局、試写だけのギミックとなったそうですが、私はカナザワ映画祭で再現されたギミックを体感しました。それはそれは衝撃的でした)。 新技術とホラーの結びつきが強いのであれば、様々なスタイルのホラーを送り出している朝倉監督が『スマホラー』劇場に抜擢されたのは当然と言えます。近年ではMX4Dや4DXという新たな映画上映ギミックが登場しています。今月公開される、白石晃士監督の4DX専用ムービー『ボクソール★ライドショー 恐怖の廃校脱出!』は非常に楽しみな作品ですが、朝倉監督の手掛けるMX4Dや4DX映画も観てみたいものです。 朝倉監督のホラーへのこだわりは、監督が映画技術を学んだ映画美学校の実習作品からも伺えます。フィクション・コース第17期初等科ミニコラボ実習作品として製作された、約10分の短編『試写室』を私は以前、観る機会がありました(朝倉監督自身は第8期修了生)。この作品は持ち込み映像素材を上映する試写室で、映写係の青年が体験する恐怖を描いたもの。スクリーンに映るのは現実か? 幻か? 自分はスクリーンを観ているのか? いやスクリーンこそが自分を見つめているのではないか? 謎のビデオを見た男が狂っていく『ビデオドローム』(82)にも通じるホラー短編です。ちなみに『女の子よ死体と踊れ』には他にも映画美学校修了生が参加しており、整音・効果の高島良太は同じく第8期修了生で、出演の古内啓子はアクターズ・コース第1期修了生です。 毎回、ホラー映画ファンを唸らせる、新しい恐怖を生み出す監督が最新作で挑んだのは、人体バラバラショーでした。 ◇人体バラバラの黒いユーモアと「少女のコワさ」 本作のホラーな見所は不死身になった“あの”の人体バラバラショー。チェーンソー(!)を持った女性を見るや「これで死ねるかも!」と期待感で昂揚しながら、“あの”は刃に向かって突進!しかし、真っ二つになってもピンピンした自身の体を見てショボン。このような黒いユーモアが続きます。このテイストは、バラバラになっても各部位が動き続けるゾンビが楽しいホラーコメディ『バタリアン』(85)や、不死身になった二人の女が男を取り合って死闘(死ねないのに)を繰り広げるブラックコメディ『永遠に美しく』(92)を思い出させます。特に『永遠に美しく』での、階段から転げ落ちて、首が180度に折れ曲がったり、ショットガンでドテっ腹に大穴を開けられても平然とケンカごしで食ってかかる笑いは『女の子よ死体と踊れ』にも通じるものがあります。 また、バラバラになった“あの”の下半身やら各死体部位がヒョコヒョコと動きだす様には、『アダムス・ファミリー』(91)に登場した、意思を持つ愛らしい手首「ハンド」を想起しました。1970年代〜80年前後までの後味の悪い粘着質なホラーと、2000年以降の過剰な暴力描写が求められるブルータルなホラー群の間に生まれた、カジュアルなアメリカンホラーのテイストをそこかしこに感じました。こういう、ちょっと毒を持ちながらも広い層が楽しめるホラーは少ないため(特に現在では)、本作は非常に稀有な作品であると言えます。 人体バラバラの他にドキっとしたのは、主人公たちの死に対する感覚。本来は自殺したかったのに不本意な死に方をしてしまったため、再度、生を得た後、本望である「自らの意思による死」を求める“あの”と、それを平然と受け入れる“ちーぼう”たちは相当に病んでいます。思春期の少女が血や死に魅せられるのは不思議なことではありませんし、『小さな悪の華』(70)や『乙女の祈り』(94)といった、少女が妄想や情動の果てに人を殺めてしまう物語も昔からあります。本作にはそんな「少女のコワさ」が見て取れます。 また、おそらく本作のタイトルの由来にもなっているであろう『死体と遊ぶな子供たち』(72)でも、遺体への悪ふざけや適当な蘇生儀式が出てきます。こういった感覚も冒涜行為に眉をひそめる大人より、倫理観を超えた興味本位を純粋に持てる子供の方が自然に受け止められるのかもしれません。 本作はゆるめるモ!ファンや大人のホラーマニアだけが楽しむにはもったいなく、多くの人に観てほしい映画です。都内上映は終了していますが福岡、京都では現在上映中で、今月末からは神奈川でも上映されます。 【現在公開中】 福岡 中州大洋映画劇場 京都 立誠シネマ 【1月30日(土)〜】 神奈川県 シネマジャック&ベティ ※上記は2016年1月6日時点の情報です。詳細なスケジュールや公開期間は各劇場のHP等にてご確認ください。 『女の子よ死体と踊れ』公式サイト ◇衝撃の長編デビュー作『クソすばらしいこの世界』 最新作『女の子よ死体と踊れ』の鑑賞直後、僕はスプラッタホラーを堪能した気分になったのですが、あらためて思い返すと特に血しぶきや流血はなかったんですね(ちょっとは出る)。でも、そう思わせるのは映画の中から(目には見えない)血の匂いが漂っていたからではないかと思うのです。それと長編デビュー作のスプラッタ『クソすばらしいこの世界』での印象がいまだに強いからかもしれません。この長編デビュー作について、過去にコラム掲載した内容に加筆修正したものを以下に再掲いたします。 -------------------------------------------------- 『クソすばらしいこの世界』はオールアメリカロケを敢行した、現在の日本では珍しいスラッシャーホラーです。日韓留学生のバカグループが旅行中にお酒とお薬で調子こいていたら、シリアルキラーのアメリカ人兄弟に酷い目に遭わされるというお話。観客へ常に新鮮な血を提供せんと、赤錆びた斧がせっせと振り下ろされる、エンターテイメント精神に溢れた作品です。『息もできない』『ある優しき殺人者の記録』のキム・コッビと、劇団「楼蘭」の主宰で、『戦慄怪奇ファイル コワすぎ! 史上最恐の劇場版』にも出演した、大畠奈菜子の血みどろアクションも見ものです。 人気のない荒涼としたハイウェーを舞台にした本作では、言語の壁によるコミュニケーション不通が一つのテーマになっています。 留学生グループの韓国人学生(キム・コッビ)は英語は喋れるけど日本語は分からない。 一方、日本人グループは一人を覗いて皆日本語オンリー。襲いかかるアメリカ人はもちろん英語しか話せません。言葉による意思の疎通ができないことで窮地に陥ったり、ブラックな笑いを生んでいます。 英語圏の国での居住経験や旅行をした人なら、「英語が喋れて当たり前」という現地での認識を強く感じた人も多いと思います。 英語を発することができても、発音がおかしければ意思の疎通がうまくいかないこともあり、時には気分を害する態度をとられてしまうことも(監督もアメリカで英語が通じずに悲しい思いをしたと雑誌インタビューで語っておりました)。この映画は、苦い海外旅行経験のある人には、より面白く鑑賞できることでしょう。 よそ者は容赦なく殺し、家族間の結びつきは強いという殺人鬼兄弟のキャラクターも、『悪魔のいけにえ』(74)に代表される、所謂“田舎ホラー”風味満点で嬉しくなります。情報技術・交通網の発達した現代日本では、「都会の常識が通じない田舎の恐怖」を描くことが難しいため、日本産田舎ホラーは望めないのかと諦めていましたが、こういうやり方があったのかと膝を打ちました。 また、アメリカのロケーションも抜群。ラリったバカな日本人学生たちが広大な荒野と山脈を背景にはしゃぎ回るシーンの解放感。「全編アメリカロケ!」と謳っても、倉庫や路地裏ばかり映され、「これなら日本で撮っても変わらないのでは? 繁華街も六本木にしか見えない…」と疑問を感じる日本映画もある中で、本作はアメリカでロケすること(アメリカでしかあり得ない風景=日本人が狂う程にはしゃぐ理由にもなる)の意味を正しく理解しています。 この映画は中盤以降、「女のコワさ」を開花させていきます。『ムカデ人間』(2010)で悲惨な目に遭うヤクザを演じた北村昭博が本作では、ある女性キャラにこれまた酷い目に遭わされます。クライマックスでは、女同士による、『永遠に美しく』を超えた女の戦いが展開されます。スラッシャーホラーにおいて、最後まで生き残るヒロインを「ファイナルガール」と呼びますが、ファイナルガール同士の戦いとなれば、その結末は果たして…。 本作はDVDも出ておりますので、最新作の『女の子よ死体と踊れ』と合わせて楽しむのも一興です。 ■2015/12/22 聖夜に起こせ!血みどろの奇跡!POV映画の臨界点『ある優しき殺人者の記録』 ※本論考文はメルマガ『映画の友よ』への寄稿文を加筆、修正したものです。 12月21日(月)にWOWOWで白石晃士監督の『ある優しき殺人者の記録』がTV初放送されます。本作は白石監督が得意とする、POV(一人称視点の主観映像)スタイルのフェイクドキュメンタリー映画。オール韓国ロケの日韓合作映画です。予告編を観る限りでは、血と暴力に彩られた陰惨なスリラー映画に思えますが、監督はハートウォーミングな作品と述べていた本作。そして、鑑賞後、私はこの 映画に愛おしさを感じ、心が暖かくなっていました。 今回、WOWOWでのTV初放送に合わせて、過去に私がメルマガ『映画の友よ』に寄稿した本作論考を一部修正の上、掲載させて頂きます。 ※【ご注意】ラストは書いておりませんが、終盤近くまで詳しくストーリーを追っているため、作品を鑑賞後にお読み頂ければ幸いです。 ◇カメラは全てを記録した!大量殺人者による血にまみれた奇跡の計画! -------------------------------------------------- 【あらすじ】 舞台は韓国。ジャーナリストのソヨン(キム・コッビ)はある一本の電話を受ける。それは障害者施設を脱走し、18人を殺害した疑いのある男・サンジュン(ヨン・ジェウク)からの取材要請だった。ソヨンはサンジュンの幼馴染であり、彼女は戸惑いつつも、取材を承諾する。日本人カメラマンの田代(白石晃士)を連れ、インタビュー場所として指定された廃マンションへ赴くソヨンは、現れたサンジュ ンに包丁を突きつけられ、「今から起こる全てをカメラに記録しろ!」と脅される。一体、サンジュンの目的とは何なのか…。 -------------------------------------------------- 本作は『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(99)や『パラノーマル・アクティビティ』(2007)等と同様の、POV(Point of view=カメラ主観)スタイルのフェイクドキュメンタリー映画です。 ソヨンを演じる、キム・コッビはヤン・イクチュン監督の『息もできない』(2008)でヒロインを演じ、世界中で注目を浴びました。彼女は日本人と韓国人の留学生がアメリカで殺人鬼に追い回される『クソすばらしい世界』(2013)でも、日本人監督(朝倉加葉子)の映画へ出演しています。彼女自身、日本語も出来、本作でも日本語を喋るシーンが多々あります。 ◇映画による奇跡の伝道 サンジュンはカメラに向かって、大量殺人の動機を話し始めます。17年前、10歳のサンジュンが仲の良かった少女・ユンジン、ソヨンと外で遊んでいた時のこと。ユンジンが暴走した車に跳ねられて死んでしまい、そのショックからサンジュンは精神のバランスを崩し、施設へ入院することになります。ソヨンはサンジュンがおかしくなってしまったと大人たちから聞かされていましたが、彼はユンジンの事故死以来、神の声を聞くようになっていたのです。27歳になった時、神のお告げ通り、27人の人間を殺せば、ユンジンは蘇り、他の犠牲になった人々も生き返るとサンジュンは訴えます。報道されていた犠牲者は18人でしたが、実は今までに25人を殺害していたことが分かります。そして、これからこの部屋にやってくる、日本人カップルを殺せば、儀式は完遂されるとサンジュンは説明します。到底、理解できない動機に動揺するソヨン。自分を異常者扱いするソヨンにサンジュンは悲痛な声で伝えます。 「皆は僕がおかしいと言うが、違う。僕は施設で本を読んだり、映画も観た。正常だ」 奇跡を描いた映画『素晴らしき哉、人生!』を観て感動したと語るサンジュンは、奇跡を起こす過程を映画として撮影させ、それを人々に見せることで奇跡を信じさせたいという目的があったのです。施設で心を開ける人のいない孤独な生活を送っていたサンジュンは本や映画に触れ、正気を保つことができ、それら物語のファンタジックな創造性が、神のお告げを信じる確固たる信念の補強にもなっていたのでしょう。そして、自身も映画を通して、奇跡を世の中に伝道しようとします。 映画によって、奇跡を信じられるようになった男が、映画を使って奇跡を人々に信じさせようとする。空想から、現実を生きる力を得る『LIFE!』(2013)や『オーガストウォーズ』(2013)でも描かれた、「現実を生き抜く強さを与えてくれる、空想力」がここでも見られます。違うのは、サンジュンは現実の世界で本当に奇跡(=超常現象)を起こそうとしている点です。彼は決して狂っているわけではありません。理性的な思考を持ち、殺人が許されないことであるという一般的な倫理観も持ち合わせています。しかし、幼馴染の少女を救うため、神のお告げへの信念に従った行動を決断します。つまり彼自身は狂っていませんが、彼の信じる奇跡が常軌を逸しているのです。 異星人の存在を確信し、軍の妨害にも負けず、宇宙との交信を試みる『未知との遭遇』(77)等、自身が信じる超常的な目的に突き進む物語にはある種のロマンや気高さを感じます。白石監督の『オカルト』(2009)でも、未知の存在から受け取った儀式遂行のメッセージを達成しようと、周囲の反対や無理解に抗いつつ、計画を進める孤独な青年が登場しました。 ソヨンはサンジュンの言う、神の奇跡を全く理解できませんが、カメラマンの田代は「俺は日本で超常現象を取材していた時、信じられない経験をした。だからあなたを信じます」と伝えます。このカメラマン・田代は、演じる白石晃士監督が手掛ける、大人気ホラーシリーズ『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』に登場する、超常現象取材チームの田代と同一人物。心霊・呪い・UMA等、あらゆるオカルト現象に体当たりでぶつかってきた田代にはサンジュンの訴える、神の奇跡を理解できるのです。 ◇殺人鬼をもビビらす、凶暴カップル サンジュンが神から受け取った時刻、呼び出したわけでもない、チンピラルックの日本人夫婦・ツカサとリョータ(葵つかさと米村亮太朗が演じる)が本当に部屋を訪れます(誰も居ないと思った廃墟で情事に及ぼうとした)。不意をつかれ、サンジュンに襲われたカップルは痛めつけられ、体を縛られます。神のお告げによると、儀式完遂のためにカップルの愛を確かめる必要があり、サンジュンは妻・ツカサを凌辱されたくなかったら、首を吊って死ねと夫・リョータに迫ります。極限状況で男女の愛を確かめる行為。白石監督のスプラッターホラー『グロテスク』(2009)でも、謎の男がカップルを拉致・監禁し、自分を感動させる自己犠牲愛を見せるよう、拷問にかける物語が描かれました。サンジュンがツカサの乳を揉もうが、押し倒そうが、ツカサとリョータは動じないどころか、むしろ楽しんでいるように見えます。二人には特殊な嗜好があり、妻が夫の前で他の男に犯されるシチュエーションを望んでいました。期せずして、願いが叶ったリョータは興奮しながら叫びます。 「奇跡だ!神様っているんだな!」 女性経験のない、サンジュンが慣れない手つきでツカサを犯そうとするのをリョータは嘲笑します。サンジュンの暴力により支配されている密室空間は、夫婦のペースによって、場の空気を変化させていきます。スラッシャーものやスプラッターホラーにおいて、餌食に選ばれた人間が実はならず者で捕食者との形成が逆転する構図はアメリカ映画でよく見られます。『テキサス・チェーンソー ビギニング』(2006)では、殺人鬼一家が単なる犠牲者になるかと思われた、脇役のチンピラバイカーの反撃に遭い、立場を危うくする展開があります。 ◇自身の死で完成する儀式 ツカサに耳を噛み千切られたサンジュンが怯んだ隙に、リョータは自分を縛っている拘束具を田代に解かせます。凶暴なリョータの逆襲によって、サンジュンは追い詰められます。首に縄を掛けられ、サンジュンが殺されそうになった時、それまで傍観者の立場だったソヨンが叫びます。 「彼を放して!」 その手にはナイフが握りしめられ、刃先がツカサの首元にあてられています。しかし、それでもリョータは動じません。 「俺たちはどっちかが人質に取られても、(人質を取った)相手の言うことは聞かねえんだよ」 たいしたカップルです。二人とも特殊部隊で訓練でも受けたのでしょうか。このまま脅しているだけではサンジュンは殺される。ソヨンは遂に一線を超えます。手にした刃でツカサの喉元を切り裂いたのです。ツカサを殺されたリョータは逆上し、ソヨンへ襲い掛かります。怒り狂ったリョータに刺され、瀕死の重傷を負う、ソヨンと田代。 そして、サンジュンとリョータの対決は最後、田代が渾身の力を込めたナタの一撃で決着します。日本と同じく、銃の携行が許されていない韓国では、バイオレンスもので刃物や鈍器を使ったアクションが盛んです。ハリウッドリメイクもされた『オールド・ボーイ』(2003)での、トンカチを持った主人公が十数人のチンピラを相手にする乱闘シーンや傑作ノワール『新しき世界』(2013)の終盤で、ドスを持ったヤクザたちが繰り広げる殺し合いは欧米アクションには見られない魅力に溢れています。日韓合作の本作でも、包丁やナイフ、ナタ等の刃物が登場。皆刺され、突かれ、叩き切られます。 この殺し合いにより、リョータとツカサは死に、ソヨンと田代もリョータに刺された傷で瀕死の重傷を負っています。儀式完遂のため、殺す必要のある二人には首にアザが刻まれていると神のお告げにありましたが、日本人カップルにアザはありませんでした。アザはサンジュンとソヨンにあったのです。奇跡を信じることが出来ず、無益な殺しをやめさせようとしていたソヨンでしたが、遂にはサンジュンの思いを達成させるため自らを殺すよう、嫌がるサンジュンを説得します。おそらく、ソヨンはサンジュンの言う奇跡自体は最後まで信じることができなかったと思います。ソヨンがサンジュンの気持ちを汲み取り、肯定したのは、彼の哀しみをもう終わらせたかったからではないかと私は考えます。サンジュンにとって、自分の信念を最も理解してほしかったのはソヨンでしょう。 ソヨンは自分が彼を肯定することで、彼の哀しみが和らぐならそれでいいと思い至ったのではないでしょうか。儀式に必要な命はあと二人。これ以上は自分らと関係のない人が犠牲になることもない。あの日、ユンジンが死亡した現場に同じく居合わせた者として、サンジュンと同じ哀しみを背負っている者として、自分たちの命でこの血みどろの儀式を終わらせたい、それがソヨンの願いだったのかもしれません。サンジュンは血を流すソヨンを抱え、マンションの屋上を目指します。ソヨンと自らの死により、儀式は完了します。 「これから僕の起こす奇跡を見届けてください」 カメラに向かって独白するサンジュン。果たして、サンジュンの言う通り、奇跡は起きるのか? ユンジンが蘇るとはどういうことなのか? 奇跡が起きようと、起きなかろうと、死んだ幼馴染の少女を救うために無数の屍を築こうとするサンジュンの行為には賛否両論あります。たった一人の親友を救うべく、世界の理さえも変えようとする少女を描いたTVアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』、愛する女性の幸せを願い、自らを傷つけなが ら世界を横断する『バタフライ・エフェクト』(2005)等、個のために自身の犠牲を覚悟し、世界へ影響を与える物語はSF作品でいくつか見られます。どれも、その決断には賛否あり、単純な善悪で判断することなどできません。ただ言えるのは、あらゆるものを犠牲にしてでも、愛する人を救いたいという信念。『ある優しき殺人者の記録』は、心優しき青年が一人の幼馴染を救うため、奇跡にすがりつき、その手を血に染め上げていく、哀しき信念の映画です。 ◇毎年クリスマスに全米国人が観る、奇跡の映画 劇中でもサンジュンの口から言及されるように、本作を考察する上で『素晴らしき哉、人生!』(46)は重要な作品です。フランク・キャプラ監督による、この感動ドラマはアメリカで毎年クリスマスに必ずTV放送される国民的映画。 物語は絶望した男がクリスマスに起きた奇跡により、希望を取り戻す様を描いています。主人公のジョージ・ベイリー(ジェームズ・スチュアート)は自身の夢を諦めながらも急死した父の仕事を継いで、家族を養い勤勉に働いていましたが、破産の危機に直面し全てを失いかけます。彼はクリスマスの晩に自殺を図ろうとしますが、そこに守護天使のクラレンスが現れます。自分の存在の無意味さに絶望するジョージにクラレンスは、「彼が存在しなかった世界」を体験させます。そこは、小さい頃に溺れた所を兄のジョージに助けられた弟のハリーが死んでいる等、本来ジョージにより救われていた人々が皆不幸になり、誰もが辛い生活を送っている世界でした。クラレンスはジョージへ告げます。 「一人の命は世界全体に影響を与える」 ジョージは自分が世界に存在することの意味を理解し、希望を取り戻します。映画はクラレンスから届いたクリスマスカードのメッセージで締めくくられます。 「友のある者は敗残者ではない」 アメリカ映画協会が選ぶ「感動の映画ベスト100」の栄えある1位を飾った、このヒューマンストーリーが連続殺人者の凶行を描く『ある優しき殺人者の記録』とどう重なるのか。次の章にて考察していきます。 ◇ジョージとサンジュンを繋ぐもの 『素晴らしき哉、人生!』は誰かの犠牲により救いを得る物語ではありませんが、『ある優しき殺人者の記録』と共通する点を見出せます。それは『素晴らしき哉、人生!』の劇中に登場する、二つの台詞から紐解くことができます。 ■台詞1.「一人の命は世界全体に影響を与える」 ジョージは守護天使クラレンスの導きにより、「自分が存在しなかった世界」を体験し、一人の命の存在が数多くの人々、ひいては世界全体へ影響を与えうることを悟ります。『ある優しき殺人者の記録』のサンジュンは神の啓示により、人命を捧げることで、世界全体に影響を与えかねない神の儀式を行おうとします。幼馴染・ユンジンの死はサンジュンの人生を狂わせ、彼が数多くの人を殺める原因となりました。どちらの作品も一人の命の生死が他者や世界へ与える、計り知れない影響を示しています。 ■台詞2.「友のある者は敗残者ではない」 人生の素晴らしさを知ったジョージは元の世界に戻り、我が家へと向かいました。たとえ人生に価値を見出そうと、破産の危機自体はなくなりませんが、そこに奇跡が訪れます。ジョージのために町の人々が寄付金を持って集まったのです。この奇跡は守護天使が起こしたものではありません。ジョージにこれまで助けられてきた人々の彼を信じる気持ちの表れです。ジョージは守護天使の導きにより、希望を見出しました。そして、ジョージを真に救済したのは彼を信じる人々の友情でした。『ある優しき殺人者の記録』のサンジュンも同様に、神の啓示を受け、希望(ユンジンの復活)を抱きます。そして、幼馴染のソヨンが最後に自身の信念を汲み取ってくれたからこそ、儀式を撮影することが出来、奇跡の完遂へ到達できたのです。また、サンジュンと同様に常識を超える超常現象を体験した田代はサンジュンの言う、「この世ならざる者」の存在を信じました。つまり、サンジュンは真の孤独ではなかったのです。決して、敗残者ではなかった。奇跡の起きる起きないに関わらず、自身を信じてくれた他者がいたことで、孤独な青年・サンジュンは救われていたのではないでしょうか。 天使や神の導きはあくまできっかけに過ぎません。最終的に人を救うのは、その人を信じる他者の情であることが両作品で描かれています。 ◇奇跡を信じるしかない哀しさ サンジュンは施設で『素晴らしき哉、人生!』を観て、「信じることの大切さ」と「奇跡の存在」を教えられたのでしょう。大量殺人を犯せば、大事な人が戻ってくるなど正気の沙汰ではありませんが、誰も理解者のいない施設で観た映画から受けた感動は、そのような神の啓示を信じさせるに十分な訴求力を持っていたのです。そういった超常的な信念は一般的に「妄想」と解釈されますが、それを具現化できるのがフィクションの力です。『素晴らしき哉、人生!』の守護天使も、現実的に考えればテンパったジョージが見た、電波妄想の産物かもしれないのですから! サンジュンには、儀式を達成しユンジンを救うという奇跡にすがりつく以外、生きる道はなかったのでしょう。道徳心も持ち合わせた、優しく、そして孤独な青年が非道な行いだと分かっていてもなお、それ(殺人による救済)を信じるしかない。殺人は許される行為ではありません。奇跡が起きるのならば、何をしても良いわ けでもありません。しかし、喪失感と孤独な境遇に置かれた人間は、時として、まともではない信念に取り憑かれてしまうのかもしれません。私にはサンジュンが哀れでならないのです。同時に彼の奇跡を信じる、あまりに純粋な気持ちに愛おしさをも感じてしまいます。行為の善悪で本作を捉えると、共感や感動は難しくなりますが、その行為へ至る心情の痛ましさを考えることで本作は観る者の胸を打つ、愛おしい映画へと昇華されるのです。 ◇これからのクリスマス恒例映画はこれだ! 新宿バルト9で2014年9月13日に行われた、『ある優しき殺人者の記録』公開記念オールナイトイベントでも『素晴らしき哉、人生!』が上映されました(ちなみにもう1本の上映作は、虚構性とドキュメンタリズムが合わさった傑作『コミック雑誌なんかいらない!』)。『ある優しき殺人者の記録』もクリスマスにピッタリの映画です。バイオレントなシーンが満載ですが、哀しくも胸を打つ展開が待っています。私はいつもクリスマスには『ダイ・ハード』(88)か『狩人の夜』(55)(どちらもクリスマスが効果的に作用している映画)を観ているのですが、本作も候補に増えました。できれば、TVで毎年流してほしいものです。今回、この時期に放送してくれたWOWOWには感謝を捧げたいと思います。 写真は2014年9月6日、新宿バルト9での初日舞台挨拶時のもの。(左から)監督・白石晃士(『狂い咲きサンダーロード』のTシャツ!)、ツカサ役・葵つかさ、リョータ役・米村亮太朗 2015/8/19 ハリウッド娯楽映画VS共産主義政権の密かなる真実の戦い!『Chuck Norris vs Communism』(チャック・ノリス対共産主義) 今年の4月下旬、カナダの都市トロントに数日滞在しました。滞在中に開催されていた、hotdocs(カナディアンドキュメンタリー国際映画祭)で鑑賞の『Chuck Norris vs Communism』(チャック・ノリス対共産主義)があまりにも素晴らしい映画だったので、その見所をお伝えしたいと思います。 ※本論考文はメルマガ『映画の友よ』への寄稿文を加筆、修正したものです。 【hotdocsについて】 世界中の傑作ドキュメンタリーが集まる国際映画祭! 2015年4月23日から5月3日まで、カナダ・トロントでhotDocs(カナディアンドキュメンタリー国際映画祭)が開催されていました。世界中の優れたドキュメンタリー映画が一挙に集うこの映画祭の特徴は特定映画館のみの上映に留まらず、トロントにある10以上もの映画館で同時多発的に計100以上もの作品が上映。日本の障害者プロレス「ドッグレッグス」を題材とした『Doglegs』(ヒース・カズンズ監督)もエントリーされました。 メイン上映劇場の一つ、BellLightbox hotDocs CANADIAN INTERNATIONAL DOCUMENTARY FESTIVAL (英語サイト) ■『Chuck Norris vs Communism』 娯楽が規制された共産主義にもたらされた、自由の象徴<ハリウッド映画> -------------------------------------------------- 【あらすじ】 1980年代のルーマニア。チャウシェスク政権による共産主義下では、映画を含めた様々な娯楽文化が規制され、思想検閲も行われていた。当時の東西陣営の境界、いわゆる<鉄のカーテン>を越えた向こうにある、人々の暮らしはベールに包まれ、ルーマニア国内のテレビ放送は毎日2時間のプロバガンダニュース番組のみ。無味乾燥で画一的なコンクリートアパートに住む国民は、当局による監視の目に恐怖する生活を送っていた。 そこに、<ハリウッド映画>という名の自由世界を覗ける窓が、VHSテープの形を借りて出現。数千ものハリウッド映画のVHSテープがルーマニア国内へ密輸入され、100万もの人々が鑑賞するにまで拡散していった。驚くべきことにそれらのVHSテープは一人の女性翻訳者によって、吹き替えられたのだ。特徴ある彼女の声は人々を惹きつけ、またそれは<自由>の象徴となった。 チャック・ノリスやジャン・クロード・ヴァンダムら恐れを知らないアクションヒーローの勇姿。子供たちは彼らに憧れ、大人も映画で描かれる自由で華やかな西側文化の暮らしぶりに魅了された。人々がハリウッド映画を通して初めて目にしたもの、それは豊富な商品が陳列されるスーパーマーケット、最新ファッション、スポーツカー。そして彼らが最も望む<自由>だった…。 -------------------------------------------------- 本作は80年代、西側文化が規制されていた共産主義下のルーマニアで流通していた、非合法のハリウッド映画VHSをめぐるドキュメンタリー映画。当時を知る人物へのインタビューと再現ドラマ映像で構成されています。本編で語られる80年代は世界が東西に分かれ緊張状態にあった、冷戦時代。ルーマニアはセルビアやハンガリー、ウクライナと国境を接する東欧の国です。1945年から89年までルーマニア社会主義共和国として、共産主義政権下にありました。65年から続いた、ニコラエ・チャウシェスクによる独裁体制では、秘密警察による監視や取締りが厳しく、文化的にも西側娯楽メディアの流通が制限されていました。テレビが一日2時間の政権ニュース番組だけという事実にまず驚きます。我々、日本人からすれば60年代から80年代はまさにテレビ黄金時代。世界情勢も流行も娯楽もテレビモニターを通して受け取っていました。旧友と子供時代を語り合う時も、当時見たテレビ番組を思い出してそこから記憶を引っ張り出すことも普通です。 ルーマニア国民は娯楽が規制された暮らしに満足していたのでしょうか。いや、そんなわけはありません。皆、情報や娯楽に飢えていたのです。そこにある人物が現れます。 ◇文化が抑圧された社会に現れる映画伝道師と映画に飢える翻訳者 その男の名はザムファー(ZAMFIR)。彼は西側諸国からハリウッド映画のVHSテープをルーマニアへ密輸入し、闇マーケットで流通させる計画を思いつきます。ムショでお努め経験もある彼を周囲は「影の男」と形容。やってることは違法ですが、国民は彼を当局と戦う革命の志士のように扱います。 彼と共に仕事をする男マーシア(MIRCEA)は「自分にとって、ザムファーは母や妻と同じ存在だ」と口にします。ザムファーという男は相当なカリマス性のある人物だったことが分かります。未知の世界から映画を持ち込み、新しい価値観をばら撒いていくカリスマ。さながら映画伝道師とでも言えましょうか。 実際にハリウッド映画を流通させるに当たって、問題となるのが言語。当然のことながらハリウッド映画はほぼ全て英語のため、そのままでは理解に苦しみます。そこでルーマニア語への翻訳が必要になります。ここで登場する翻訳者のイリーナ(IRINA)、彼女こそ本作の主役と言ってもいい重要人物です。政府の情報検閲機関で翻訳者として勤務していたイリーナが、映画伝道師ザムファーと出会ったのは85年。それから何年もの間、イリーナは映画に飢えた国民のため、一人であらゆるハリウッド映画の吹替をこなしていくことになります。イリーナ自身、映画が大好きで、ザムファーから持ちかけられた話に乗ったのも「たくさん映画を観られる」から。 イリーナが声をアテた俳優は、チャック・ノリスやロバート・デ・ニーロにジャン・クロード・ヴァンダムら錚々たる顔ぶれ。男優、女優に限らず、果てはET(宇宙人)まで、すべて彼女が吹替えました。モニターを見ながらマイク片手に(我々がよくテレビで見かける隔離された録音室などありません)、次々に吹替を行っていくイリーナ。吹替えた映画の本数は彼女自身の概算でのべ3000本以上。アンダーグラウンド活動のため、正確な数字は残されていません。 イリーナの吹替は甲高いハスキーボイスで、その声で『スカーフェイス』(83)のトニー・モンタナ(アル・パチーノ)もシルベスター・スタローンもロバート・デ・ニーロもも吹替えてしまいます。彼女の声を通してハリウッド映画に触れていた国民の間で、イリーナの声は語り草となり、顔の見えない彼女のことを「映画の天使」とまで言い出す者も現れました。今で言えば、<声優萌え>ですね。共産主義政権下でも<声優萌え>は存在した驚愕の事実。 ◇届ける方も観る方も命がけ! 闇マーケットでの非合法商品流通はもちろん犯罪。映画伝道師・ザムファーがVHSソフトを密かに持ち込む場面や踏み込んできた秘密警察との対峙が再現ドラマと共に語られます。またイリーナも、ある日、彼女が働く局のエレベーター内で近づいてきた同僚に「昨夜、君の吹替をビデオで聞いたよ」と囁かれる場面は一級品のサスペンス映画にも劣らないスリリングさ。 リスク覚悟で映画に向き合っていたのは供給側だけではありません。受容側、つまり映画鑑賞者たる一般のルーマニア国民も身の危険を顧みず映画にのめりこんでいました。非合法VHSは取締りの対象となるため、秘密警察を警戒しながら各家庭でこっそりとビデオを再生。逮捕されるかもしれない、それでも映画を渇望していたルーマニアの映画ファンたち。 一方、資本主義国・日本の80年代では、ビデオバブルであらゆる映画がきちんと翻訳された字幕入りビデオで手軽に入手でき、テレビをつければ朝から深夜まで、芸達者な声優陣の吹替による洋画番組が放送されていました。それらを空気や水と同じ、さもあって当たり前と言わんが如く次々に消費していた我々。同じ時代にルーマニアの映画ファンは危険を承知で、コピーされた画質の悪いVHS映画を凝視していました。日本のお茶の間のように家で寝っ転って、たけのこの里をかじりながら、頬づえついて観るものではありません。彼らにとって、映画は夢や希望の詰った、守るべき宝。ハリウッド映画の収められた非合法VHSテープはまさしく<映画秘宝>だったのです。 ◇映画が導く未知の世界 文化コンテンツが規制された社会で生きるルーマニア国民はハリウッド映画から常に新しい刺激を受け続けました。例えば、格闘アクション映画が新入荷された翌日には、通りで子供たちが映画のアクションを見よう見まねで再現し、盛り上がる姿がいたるところで見られたと証言者は語ります。大人の男たちは映画に登場するスポーツカーに興奮し、未知の世界への憧れを、自らに眠る可能性を、より一層強くしました。ある映画ファンはこう口にします。「僕はハリウッド映画を観て、初めてなろうと思えたんだ……ヒーローに」(ここで私は泣きました)。 映画は男だけのものではありません。女性映画ファンは、ハリウッド女優のきらびやかな衣装に魅了。文化が制限され、思想統制のなされた社会では生まれ出でないファッションセンスを映画から学び、どんどん女を磨いていきました。 映画ファンや映画作家がよく「人生で必要なものは映画から学んだ」と口にすることがありますが、ルーマニアの映画ファンも皆、ハリウッド映画を通して、<男とは><女とは><ヒーローとは>、そして<自由とは>を学んだのです。彼らの一人は言います。「人生のすべてはビデオデッキの中にあった!」(ここでも私は泣きました) 劇中、様々なハリウッド映画のフッテージが流れますが、その中で象徴的に使われるのが『ロッキー2』(79)のワンシーン。それは、ロッキー(シルベスター・スタローン)が大勢の子供たちを連れて、あの有名なフィラデルフィア美術館前の階段を駆け上がる場面です。アメリカンヒーローを体現するロッキーが、彼に憧れる、未来を担う子供たちを導いていく。それはハリウッド映画に誘われ、未来を夢見るルーマニア国民に重なります。なんて良い演出なんだ! 気付けば私の涙腺がまた…。 ◇共産主義の終焉、祭りのあと 89年、東ヨーロッパの共産主義国が次々に打倒され、11月にはベルリンの壁が崩壊。ルーマニアでも、国民たちの怒りが爆発し各地で暴動が巻き起こります。遂には12月、武力によるルーマニア革命により、大統領のチャウシェスクが公開処刑され、共産主義政権は終わりを告げます。 革命や政権交代には、外国の思惑も含めた様々な要因が絡みますので一概に何が原因や原動力だったとは言えません。しかし、ルーマニア国民が現政権を打倒し、もっと自由に未知の世界へ触れる機会を得たいという気持ちを高めた要因の一つに、ザムファーが流通させたハリウッド映画の力があったと考えることもできるのではないでしょうか。実際、証言者の回想で「ハリウッド映画が共産主義打倒への<自由の種>を蒔いてくれたんだ」と語られます。 Chuck Noriis(=大衆向け娯楽映画)と共産主義の戦いは、見事映画が勝利を収めたのです。革命後、ルーマニア社会主義共和国はルーマニアと名を変え、それまで謎の存在とされてきたイリーナも公に人々の知るところとなります。このドキュメンタリーの監督イリンカ・カルガリーヌ(Ilinca Calugareanu)も当時、声だけでイリーナの存在を知っていた一人で、革命後のTV番組でイリーナの姿を見たと語っています。 映画の最後には、当時のイリーナ吹替によるVHS映画ソフトを今も持っている人物が登場。再生されたビデオ画面から発せられるイリーナの声を懐かしんで聞いている場面にはこみ上げるものがありました。 ◇VHSテープがもたらす映画革命 2014年に日本公開された、VHS映画ソフトをめぐる人々のドキュメンタリー『VHSテープを巻き戻せ!』。この映画では、VHSが映画界にもたらした影響が描かれ、それまで映画は大手映画会社や劇場のものだったのが、個人で映画製作や映画配信ができるようになっていった<映画の革命>に触れています。VHS映画ソフトを大量に所持するコレクター等、独自の映画愛を炸裂させる映画ファンが登場し、観ていて元気になる傑作ドキュメンタリーです。 『Chuck Norris vs Communism』で語られるのも、VHSテープによる、市井の人々の<映画革命>です。政府でさえも、映画愛を完全に駆逐することはできない。VHSの登場がそれを可能にしたのです。このドキュメンタリーが題材としたのは圧政下での闇マーケットではありますが、『VHSテープを巻き戻せ!』と同様に観ていて多幸感に包まれる素晴らしい映画です。 ◇伝説の翻訳者登場で観客総立ち! 最後に、本作鑑賞時の模様をお伝えします。 Hotdocs(カナディアンドキュメンタリー映画祭)の2日目に私は本作を鑑賞しました。上映劇場はHert House Theatre。トロント大学(インシュリンを発明したことでも知られる名門大学)の敷地内にあります。レンガ造りの劇場内にカーペットが敷かれた場内通路は城のようで、オペラでも観に来たのかと一瞬錯覚してしまいました。 Hert House Theatre 場内はほぼ満席の賑わいを見せ、証言者のユーモラスな語りに笑いが起こり、非常にノリが良い。上映後、監督とプロデューサー(両人とも80年代生まれの女性。ジジババの回顧ではなく、若い世代による製作というのもポイント)が登壇。さらにスペシャルゲスト登場の知らせがなされ、私はてっきりチャック・ノリスが出てくるのかと思ったのですが、なんと伝説の翻訳女王・イリーナが登場!チャック・ノリスより嬉しいサプライズ!場内は割れんばかりの拍手喝采で、観客総立ちの数分間に及ぶスタンディングオベーションには震えました。 (左から)プロデューサーのマラ・アディナ(Mara Adina)、翻訳者のイリーナ・ニストール(Irina Nistor)、監督のイリンカ・カルガリーヌ(Ilinca Calugareanu)、司会者 光の反射でうまく撮影できなくてすみません…。 ↓下の画像はより鮮明です(ReelHeART Film Festツイッターより) 現時点で本作品の日本公開の予定は聞きませんが、これは是非とも公開してほしいと切に願う傑作です。その際は、格安ギャラで私が字幕翻訳もやりますんで! 『Chuck Norris vs Communism』公式サイト (英語サイト) |
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